日記・コラム・つぶやき

2012年2月 2日 (木)

第十五話

     北方領土問題は始めから見直して正当な日本の
     主張をするべきだ

 私はこのブログ第3話以後で大平洋戦争の昭和15年から20年まで、米英とソ連との関わりを詳しく見て来た。それは情け容赦のない米英首脳の世界戦略とソ連のこれに乗りかかる貪欲の謀略の歴史である。
私はこの結果の日本の敗戦はこれほどに酷い仕打ちは古今世界のどこにも無いと書いた。
 米英特にF,ルーズベルトの対日政策については最近に何人かの人が著述しているので重複をさけるが、ソ連(91年12月以降はロシヤ)の所業については先に述べた事実関係にもっと深くメスを入れるべきだと考えている。
それは戦後67年を経て、まだ北方四島についての問題が解決しない事から、ここで日ソ、日ロ関係の出来事から真実をえぐり出し、日本人として明確な、そして決然とした態度を持つべきだと考えて第15話とすることにした。

1、 昭和15年からの日ソ関係、日ソ中立条約の締結
 遡って見れば昭和15年9月に松岡洋右(ようすけ)外相が日独伊三国同盟を結び、その勢いを駆って昭和16年4月13日にクレムリンを訪れスターリンと日ソ中立条約を結んだ事から始まる。
それは5年間の期間、従って昭和21年4月25日まで、その1年前までに当事者からの申し出により改廃出来るとする国際条約であった。
 この電撃的な日ソ中立条約の締結の手際に日本の人士は驚嘆の賛辞を呈した。
しかし今になって考えるとこの日ソ中立の松岡氏の提案はスターリンにとって棚からぼた餅の申し出であったのである。非常に大きなメリットがソ連側に有った、それはこれでソ満国境は安泰となる、その以前にノモンハン事件でやっつけた日本関東軍の反攻を考えないでよくなり、そこに配備していた160万人の兵をシベリヤ鉄道でヨーロッパ戦線へ送ることができる、ソ連にとっては又とないメリットでありこれを実行したソ連はこの兵力でドイツを圧倒したのである。
 日本の方はどうであったか、同様にソ満国境の緊張が解けて関東軍の60万人を昭和17年以後にフイリッピンのほか南方各地に配備できたのは良く似た状況であった、しかし結果は本ブログ第2話3-2の通り昭和17年12月以後は各地で敗退、全滅等とこの中立条約の直後の効果には無残な彼我の差があったのである。

2、ソ連の中立条約破りの姦計
 上記1にみた大量の兵の移動は何等問題とすることではない、ところが事はそれだけでは無かった。
 昭和18年11月28日からのテヘラン会談でスターリンは米英首脳と対日参戦の協議をした、さらに昭和20年2月24日のヤルタ会談での秘密会談で対日参戦を約束した。
これらの事は当時全く日本に漏れる事はなかった、戦後何年も経て公表されたから書けるのである(この事についてはブログ第3を参照)がそれはドイツ降伏後3カ月後に160万人の兵をソ満国境に帰して対日参戦すると云う恐るべき内容であった。
 この事についてはブログでも簡結にしか書かなかった、だが今その秘密会談の裏面を考えると浮かび上がってくるのはスターリンの日ソ中立条約破りの姦計である。テヘラン会談でソ連の対日参戦と云えば現在有効な日ソ中立条約破りしかない。昭和21年4月の期日後の参戦と云う事では無かった。
 この時スターリンの国際条約破りは国際社会から批難を浴びるだろう、しかしそれをやるとして昭和18年11月と20年2月に米英首脳に約束をした。
この時スターリンの考えを想像すると、自分がやろうとしている行為は国際的に指弾を浴びるとしても、この際二大国米英の首脳の了解を得ておけば自分の荷は軽くなる、そして必ず米英はこの大戦の終結についてソ連の日本に対する攻撃を望むはずだと、すれば自分は連合国勝利の栄冠を握ることが出来る。
 このようにスターリンの姦計は事が運ばれて行った、しかし日本人は誰ひとりそれを知ることもなく、ひたすらに友好国ソ連を信じていた。

3、梁山泊の巨頭の協議の結果
 私はブログ第7話でカイロ会談(昭和18年11月)以後4回の秘密会談を昔の中国の史話に出て来る梁山泊にたむろする盗賊の強奪計画の打ち合わせと同様と書いたが、戦後に判明したソ連(国が変わってロシヤ共和国)の行動はそれを裏ずけるものとなって行った。
 スターリンはヤルタ会談(昭和20年2月)でドイツ降伏後3カ月後に対日参戦をする、それは160万人の兵を再びシベリヤ鉄道で満州、樺太等の日本の接点に送るのに3カ月を要するからとして、3カ月後の対日参戦、日ソ中立破りを確言した。
 その後の事実はドイツが昭和20年5月8日に降伏、そしてソ連は20年8月9日に日本にたいして宣戦布告をする。
これを見るとスターリンは米英首脳に対する約束を律義に実行したように見える、だがそれは褒められるようなことではない、彼が行ったことは国際条約破りという世にも稀な非道なことであったが、実はその裏に次ぎのような事情があったのである。
 この時スターリンの頭には約束の3カ月と云う事よりも大変な心配があったと思われる。それは8月6日に広島に原子爆弾が投下された事である。
若し日本が降伏してしまえば、そのあとに対日参戦しても何にもならない、昭和18年から練りに練った計画が画餅に帰する。
スターリンは昭和20年5月以来の広田元首相,近衛公爵の太平洋戦争の講和の仲介をソ連に依頼しようとした事、したがって日本が降伏する時期が迫っている事を知っていた。
だからこの20年8月の初めはスターリンは気が気でなかったのである。
 それで1日も早い対日参戦を目論んだわけで、それがギリギリに間に合って8月9日の宣戦布告になったのであろう。

4、日本政府の驚愕
 このソ連の宣戦布告は中立条約の期限まで8カ月を残し、それよりも友好国と信じ講和について仲介を頼もうとして公衛公爵の特使まで差し向けようとした日本政府への精神的打撃は如何ばかりであっただろう。
当時東郷外相が“やがて世界の歴史が裁判するべし”と書き送った事などブログ第4話を参照されたい。

5、ポツダム宣言とソ連の参戦に対する日本政府の対応
 ポツダム宣言は昭和20年7月26日付で米英支の三国名で発表された。
これに対する回答、昭和天皇の終戦の詔書は8月15日に出された。(いずれもの原文はブログ第4話に掲載)
 その間にアメリカは広島に8月6日に原子爆弾を、さらに8月9日に長崎にプルトニューム爆弾を投下、そしてソ連の対日宣戦布告が8月9日であった。
 政府としてはソ連の非道な蹂躙を1日も早く止めさせなければならない、そこでポツダム宣言は米英支三国名で出されたけれど回答である詔書には米英支蘇四国に対してその共同宣言を受諾すると云う方法を取った。
 ソ連の日本に対する理由のない戦いを止めさせようと云う思いの滲んだ詔書となったのである。(ブログ第4話)

6、ソ連参戦の実態
 ソ連の理由無き参戦の実態をブログ第5話から再録してみる。
昭和20年8月9日未明にソ連軍は157万人の陣容で満州、樺太方面に侵攻した。
(1) 満州の幅広い国境方面軍は1週間苦戦の末8月16日関東軍司令部から停戦の指示があった。この指示に従い各方面軍は停戦協定に入るが難航する処もあり、全部が停戦協定できたのは8月29日、この間の戦死者は6万人と云われている。
(2) 樺太、千島方面へは様子が異なり8月11日から樺太南部に越境が始まり、本隊が8月16日に西の海岸、恵須(えす)取(とる)に上陸8月24日に停戦。南の真岡に8月20日に艦砲射撃の後に住民も見境なく攻撃の惨劇が展開されたが8月23日に停戦。樺太行政の中心地、豊原では第88師団はここで戦えば一般住民に被害が及ぶ恐れ在りと武装解除してソ連軍の進出を許すほかなしと方面軍司令に許可を求め、22日正午過ぎに停戦協定が成立した。
(3) ついで8月18日に北千島占守(しゅむしゅ)島(とう)の対岸10kmのカムチャッカから大砲による攻撃をしながらの侵攻があったが、ここは日本軍の大勝利で8月19日に停戦した。
(4) 中千島の松輪島には8月26日から、ウルップ島には8月31日に侵攻してきた。
(5) 更に続いて北方四島にもソ連軍は侵入してきた。8月15日時点では択捉島以南は日本領土だからアメリカが進駐するものと思っていたらしい、ところが偵察してみると米軍は来ていないと知り、あらためて8月29日に択捉島に、9月1日に国後島、色丹島に上陸して日本軍の武装解除を行った。

このように日本が戦争はやめたと8月15日に宣言しているのにソ連は全く耳をかさず半月以上にわたって侵攻を続けたのはどう云う事なのか、次に見てみる。

7、ソ連の侵攻を分析する
 ソ連の対日参戦を是認する考えは全くないが、その実相を分析すると次のようになる。
(1) 昭和20年8月9日から15日までの戦いはソ連側にすればカイロ会談、ヤルタ会談で米英首脳に約束した事を実行した、それは日本を降伏させる目的があったと云えなくはない。
(2) しかし日本が天皇の詔書をもって降伏を宣言した8月15日以後も執拗に日本を攻めたのは何故か?
 戦後67年を経た現在の目でみれば8月16日以後のソ連軍の行動は侵略戦争に転じたと断じることが出来る。
(3) 戦後67年を経た平成22年にソ連の後継国であるロシヤ共和国が自ら本性をさらけ出したのはメドベージェフ大統領が国後、択捉島に移動式ミサイル基地の建設を指示したと云うことである。(ブログ第12話)
 その以前にもプーチン大統領時代にエトロフ、国後島はソ連の占領によって領土についての結着がついているとの説を為している。
この言はソ連は日本国を侵略したと自ら云っているのである。
(4) そうすると昭和20年8月16日以後のソ連の侵攻は別種の戦争、日本
を侵略するための戦争を開始し、それが9月2日まで続いたと云うことなのである。
(5) 北方領土二島返還論(歯舞、色丹島は返すと云う論)をロシヤ側は云っているらしい。この論は8月16日以後のソ連の侵略戦争を是認しない限り成り立たない理屈なのである。

8、日本の現政権にたいして北方領土返還について正面突破の姿勢を要望する
 戦後50年のわたる自民党政権はたびたび日ソ、日露交渉を重ねて来た、
しかしそれは相手方の勢いに押され勝ちな形になっていた。
ここで今までの日本政府のこの問題についての基本方針を反芻してみよう。
 四島の即時一括返還にはこだわらず、四島の日本への帰属が確認されれば
 返還の時期,、態様、及び条件は柔軟に対応する、となっている。

1993年10月に細川首相とエリツイン大統領が合意した東京宣言には
“法と正義の原則を基礎とする”とうたわれている。
 それは我が国の領土を侵す侵略戦争はどのような時代であっても許される事でない事、国が小さくても軍隊がなくても主張し得る事であり、世界の同意が得られる事である。
さらに云うならば当時非法にも四島から強制移住させられた1万4千人余の人々の帰還は正義の原則に照らし早急に実現を望む。
 日本国民は上に述べた日ソ、日露の戦中、戦後の歴史を良く考えれば法と正義がどこに在るかが理解できる筈、その上で現政権がひるむ事無く北方4島の返還に取り組むよう強力にバックアップして貰いたい。
(平成24年1月27日 第15話終わり)

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