戦後68年を振り返って

2015年5月10日 (日)

戦後68年を振り返って 第19話

戦後68年を振り返って 第19話
       冷戦はいつまで続くのか

 太平洋戦争と云う熱戦が終了したあとまだ米ソの緊張が続き、これが冷戦と呼ばれ、これから朝鮮戦争、アフガニスターン戦争、ベトナム戦争などが火を噴いたがこれらが曲がりなりにも終了して、米ソ冷戦は終了したように思われました。
しかしその根は50年を経過しても枯れず,いつかは芽を出すことになります。2014年の3月のロシヤのウクライナにたいする介入はまさに冷戦が火を噴く寸前と思われます。
そして一方東方に目を向けると日露の北方領土の問題がぐずっている事も冷戦というべき事態なのです。そのはっきりした徴候を見て見ましよう
(1) 平成22年11月21日メドベージェフロシヤ国大統領は日本には無断で国後島を訪問した
(2) メドベージェフ大統領は平成22年12月24日に北方領土はすべてロシヤ領であると主張した
(3) 平成23年5月12日の新聞ではロシヤ国防相が北方領土に駐留する部隊の増強計画を近く国家指導部に提出すると云った。
国後、択捉の2島に新たに2か所の軍事拠点を構築し移動式ミサイルシステムと云う最新兵器を配備する、この北方領土の軍備強化は大統領より23年2月にジューコフ国防相に指示したとのことである。
(4)5月15日イワノフ副首相等が国後、択捉2島を訪問
(5)平成23年9月8日の読売新聞で北方領土に関連する新しい施策が決まったと報道  された、それはソ連崩壊後初めて開発建造した原子力潜水艦「ユーリー、ドルゴル―ー」(全長170m最大潜水深度450m射程8000kmの弾道ミサイルSLBM[ブラバ」を搭載する。
これを年内に太平洋艦隊(司令部ウラジオストック)に配備し、この1号艦の母港はカムチャッカのビリュチンスクになる予定とのこと。
するとアメリカ本土を射程に収める戦略原潜は既存の「デルタ3型」4隻とあわせて5隻となり、注目されるのは新原潜の配備でオホーツク海の戦略的重要性が高まり北方領土の重要性が増すと指摘する米国の研究機関があるとしている。
(ここで筆者が思い出すのは択捉島のひとかっぷ湾は以前北洋漁業の根拠地であり 連合艦隊の集結地であったこと、昭和16年11月26日に戦艦、空母等27隻 が、昭和17年5月末にはミッドウェイに向かう戦艦等83隻が集結した良湾である事である。ここをロシヤが使用することになれば、ロシヤの極東海軍の大きな威力になる事を恐れるのです。)
以上のロシヤ側の行動は明らかに日本とアメリカに対する戦闘準備としか考えられませんがこれらは日本の政治の弱体化に乗じて起こされたと見られます。

しかし強力な政府態勢が整った現在、上に見たようなロシヤの行動の根を断たなければなりませんがそれは北方領土の日本主権をロシヤに認めさせる事に尽きます。
 このことは既に何度も見たように1855年2月7日の日露通好条約の通り
 「第2条 今より後日本国とロシヤ国の境は「エトロフ」島と「ウルップ」島との間にあるべし、「エトロフ」全島は日本に属し「ウルップ」全島、それより北の方「クリル」
  諸島はロシヤに属す(以下略)」
と規定されており、この境界についてはその後何等変更されていない。
またサンフランシスコにおける1951年9月7日の講和会議における日本代表吉田首相の説明では[日本開国当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシヤも何等の異議を挿まなかったのであります」と述べている。
 この明らかな日本領土である択捉島にロシヤ軍は1945年8月28日、太平洋戦争が終わって2週間後に、国後島には更に3日後の9月1日に侵入して不法占拠した。
これは太平洋戦争とは別個の戦争と云う他は無い。
 スターリン史観ではロシヤの第2次世界大戦への参戦、日本との中立条約の有る中での参戦をヤルタ会談での英米首脳の合意があったと云うが、この会談はソ連の行為を認める権限の有る会議では無いし、日本は全く知らない会議、連合国だけの会談であり、これをもって中立条約をやぶる根拠にはならない。
またこの参戦を連合国人民を惨禍から救う聖戦と云うが、それを云うならば古今の戦争はすべて聖戦となる、北方領土侵攻の根拠にはならない。

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ところで冒頭に掲げた(1)から(5)の北方領土におけるロシヤの行為は我々が問題としている北方領土の主権の確認からは遥かに先に進んでしまっている。それは日米の安全にまで及んでいるのである。それならば日米安保条約に則って協議するべき段階にきていると思うのである。
 ところで日露を取り巻く世界の情勢を見て見よう、昨年3月よりロシヤの隣国ウクライナへの介入が世界の注視の的になっている。ここは北方領土問題解決の一つの機会と考えることができる。
 世界の東西で問題を抱えている、プーチン氏が取り得る手段は東にある、日本との交渉に於いてスターリン史観を脱却しゲンナジー、ブルブリス氏の意見・・北方領土の返還がロシヤの国益に資する・・を採用することが現在東方で膠着している問題解決と日露平和条約締結の早道である。
そうすれば日本は既に主権を放棄した樺太南部と近辺諸島、千島列島のウルップ島以北18島のロシヤの領有を認め世界地図にロシヤ領の色が付けられる事になります
 両肩に荷物を負ったプーチン氏に一肩おろして楽にしませんかと安倍首相から話してみるのはいかがでしようか。
        (第19話終わり    2015,5,6 久保田 英三)

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2015年3月12日 (木)

戦後68年を振り返って 第18話

戦後68年を振り返って 第18話
            
            多神教の国に生きて思う事
    

 日本の国教は神教であると云われている。それは天皇家の宗教が神教である事、皇室が古来、皇大神宮を崇め、大事な節目々々に神事をささげることがおおもととなって居る。
(ただし昭和20年の敗戦時にマッカーサー進駐軍からこの神道が侵略戦争の源と見られて神道は抑圧され官幣社の表札の抹消、国からの補助金の差し止めがされたが、これらはあまり効果はなかったと思われる)

 神社は日本全国各地にある、昔の官幣社は天照大神以来の多くの神々を祭神とし、以下歴代の天皇、皇后、菅原道真等の高位の人、楠正成等忠臣から近世の乃木将軍から、靖国神社には明治以来の外国との戦争で戦死した何十万人の将兵等誠に多くの祭神が祀られている、なかには神社の奥の大岩、山を祭神にした社もある。これを元来日本ではやおよろずの神と云って崇めている。それをアメリカ軍が否定しようとして、それは出来る事では無かった。

(靖国神社には岩里武則命が祀られている、この人は台湾出身その名を李登欽と云い、元台湾総統李登輝氏の兄である。昭和18年台湾は日本国台湾省であった、岩里氏は日本人として昭和18年10月に高雄の左営、台湾総督府海軍志願者訓練所に入所し翌年4月に左営海兵団に、そして7月に海軍機関兵として南方へ出撃し昭和20年2月15日ルソン島マニラで散華された。すなわち日本国民としてその国のために戦い戦死された、海軍上等兵であった。
 平成12年に退任された李登輝元総統が平成19年に東京を訪れた時、6月7日に念願の兄上との対面を62年ぶりに靖国神社で果たされた。
 この事実は靖国神社を考える上で大きな事柄と考えられる、当時日本国民として戦い
戦死した人は現在の台湾、朝鮮の人にかなり居られて合祀されていると思われる、。
 日本政府関係者が靖国神社を参拝するのをとやかく言う人々がこの話をきけばどう思うだろうか。)

 多神教に関して良く似た信仰の問題で仏教がある、1500年前に仏教がインド、中国から日本へ伝来して非常に多くの仏教徒が日本には居る。そしてその祭神も釈迦以下多くの仏様が居るのである。そして多くの仏様が云われることを日本古来の高僧と云われる人々が説明した物が各宗の教義になっているらしく,大分異なった説になっているようで、
この仏教も多分に多神教的な様相を呈している。

日本にはこの様に神道、仏教が広く行き渡りそしてこれらの宗教は他の宗教を排斥しないから、日本国は宗教の自由な国になって(鎖国時代は別として)、その後西洋から伝来のキリスト教、その他の宗教を信じる人もある程度は存在している。

 ところで日本人の宗教に対する態度と云うものを見ると、多くの人はアバウトな宗教観を持っているのではなかろうか、私個人を振り返って見ると非常に雑多な宗教観を持っている、いな宗教観を持っていないとまで言うような実態がある。
例をあげると、正月には近くの神社へ初詣に行く、結婚式は神前結婚をし、子供の七五三の時も神社でのりとを挙げて貰う、8月15日の慰霊祭は護国神社でやり。近親者の葬式は仏式で喝を唱えて貰う、12月25日にはクリスマスと云ってケーキを食べる。等など、それは習慣的にやっていることで、とても宗教的な信仰をしているとは言い難い。年中行事なのである。

これは宗教心の非常に少ない人間の例であって日本人の中にも宗教心の強い人もいるが、日本人平均的には私のようになるのではなかろうか。

 この様に考えてくると多くの神、仏が居てそれら神々が非常に温和に他を認め合っているから、すなわち厳しい宗教でないから日本国人は強い宗教をもたないで生活して行けるように思うのである。
東京に行って足が向けば靖国神社に御参りするかもしれない、そこに極東軍事裁判で有罪になった人が祀られていてもその他に何十万人の英霊が祀られて居る、中には李登欽氏のような人もいるのに差別する事は出来ない。

 さて言いたいことはこれからである、日本人全体が宗教心が希薄であるから,教義の厳しい宗教を信じる人のことを理解できないのではなかろうか、特に一神教の場合に極端な事が起こる事が理解できないのではなかろうか。ところが一神教は戦闘的、攻撃的になる素地を持っているのである。

 世界の歴史を見るとキリスト教も中世に十字軍を起こし欧州全域わ荒らし回った、イスラム教もフランス、スペインまで征服した歴史があった。

 そして現在中東地区で何かと問題が起きている、イスラム教徒の教義の争いから生まれる混乱である。イスラム教ではその中の派閥ともいえるシーア派とスンニ派との争いがあるとの事。
そう云う争いを何とか止めさせようとする善意の部外者を捕えて処刑したのがイスラム国と名乗る者たちの蛮行であった。

 一神教、代表的なのはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教等は教義をつきつめて行けば
他の宗教を信じるものを許さないという厳しさを持っている、この事をを日本人は肝をすえて考えておかなければならないのではなかろうか。

 参考文献 英霊にこたえる会編 靖国カレンダー
      文芸春秋 2015年3月号、一神教と多神教  塩野七生

   (戦後68年を振り返って 第18話 終わり  2015年3月10日 
                            久保田英三)

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2015年2月11日 (水)

戦後68年を振り返って 第17話

戦後68年を振り返って 第17話

北方領土問題の核心

 平成27年1月20日に岸田外相がベルギーで行った演説でウクライナで起こって居ることも北方領土の問題も「ロシヤとソ連の力による現状変更だ」と述べた事をロシヤ外務省が批判した事について、1月22日に菅官房長官が更に「北方領土問題が日本がポツダム宣言を受諾を表明した後にソ連に占領されたのは歴史上の事実だ、岸田外相はこうした歴史的な事実をふまえた認識を述べたもので[歴史の歪曲]と云う判断を受け入れることはできない」と反論した。

 この日本の政権の主要閣僚2名の発言は短いながらも北方領土についての日本の立場を明快に示した発言であって、全く正しい。 これが北方領土問題の核心なのである。  ソ連、ロシヤと日本の領土交渉が始まって60年間この日本の主張の核心がロシヤ側に理解されていない、それはロシヤ側の上記の外務省の発言に現れているが、その根源にスターリン史観なる誤った思想があるように思われるのである。

 上記の日本政府の2閣僚の核心をついた発言だけでは全体を掴むのが困難なので、以下にその基になる事実関係を改めて検証してみよう。

1、 日露領土交渉の行き詰まり 北方領土交渉が行き詰まっているのは、日本側の主張が国後、択捉島の主権が日本に在り、これが1945年いらいソ連、ロシヤに侵害されている、その日本主権の確認を求め返還を求める、と云うに対し、 ロシヤ側は太平洋戦争を、多くの世界人民を戦禍から守る米英の聖戦であるとして、それへのソ連の参加の結果北方四島へ侵攻し、以後それらを占拠して今日にいたっていると主張して譲らない。

 実状を見て見よう、 北方領土へのソ連軍の侵攻は1945年8月29日に択捉島に9月1日に国後、色丹島に上陸して、武装解除した。 この侵入は菅官房長官の言のとおり、8月15日の日本のポツダム宣言受諾、したがって日本の降伏の14日以後のこと、すなわち全く戦後のことなのである。  この日本の降伏は8月15日に中立国の外電で米英支蘇の4国に通知されたからロシヤ政府も即日承知していたはずであった。 (スターリンソ連首相が日本降伏を即日に知って居たことは、次の事実で証明できる。 それはその翌日の8月16日にアメリカのトルーマン大統領宛てに戦後の日本占領地として北海道の北半分を要求した、しかし8月17日ずけのトルーマン大統領の返書は北海道の半分の占領は拒否する、そしてアメリカは中千島の一島に米軍の飛行場を設ける権利を要求した。 スターリンは8月22日に、不満であるが北海道の北半分の占領は断念するが、中千島の飛行場の設営は断ると返事したという事実がある。 この事からスターリン首相は日本の降伏を即日知って居たと云えるのである。  

以下は想像であるがスターリン首相は北海道占領の挫折をうずめる次の手として北方領土への侵攻を指令したのではないか、それが8月29日と9月1日の北方領土侵入となったと思われる。  戦後2週間を経た時点と云えば、筆者が予科練、陸戦隊として四国太平洋岸に配置された当時を思い出しても、8月15日敗戦の日の屈辱感、挫折感、価値観の喪失から立ち直って復員、帰郷の思いのみの時期であった。  

この時に北方領土へのソ連軍の侵入、そして武器の押収であった。 この時の現地の兵士たちの心情をおもえば涙するしかない。 これはスターリン史観に云う聖戦の継続、その結果の占領とは全く言いうる事ではなく、 太平洋戦争が終了して2週間後の別個の領土侵略の戦争を始めたと断じざるを得ない。

 更に非行は続く、北方領土、満州、樺太、朝鮮の日本兵士を拘束して64万人(満蒙開拓団の人々は別に27万人)がシベリヤ、沿海州、ウラル山脈の西までに送られ,苛酷な労働に服することになった。 この事はポツダム宣言の第9項に明示された、捕虜の待遇に違反するのみでなく、人道上大きな問題であり、今後詰めるべき日ろ平和条約交渉において対処すべき問題である。 また日本軍が居なくなった兵舎は無断でソ連兵が住み着き、70年間使用し続けている、これも黙って居るべき事ではない。

 さらに看過できない非行は北方4島在住の島民17,291名はそのままに居ればロシヤ国民にされるので強制的に北海道に移住させられ対岸の根室等に居住を余儀なくされた。以後70年今は孫の代になっているがこの人々の望郷の念は消えない。

 この人道上の罪も糾弾されるべきなのである。

2、 スターリン史観の検証  ロシヤ側は未だにソ連の北方4島への進攻はヤルタ協約で認められた聖戦の遂行と云う、 これは今まで見て来たように歴史を歪曲したスターリンの説なのである。  まずヤルタ会談なるものが1945年2月4日から11日に米英首脳とスターリンが会談して戦後の戦後の国際秩序について話し合われたことは知られていたがその他は何等知られて居なかった。

この事は1991年9月の日露平和条約交渉に於いて外相級の会談で次のように日本の見解を明らかに示している。

 「ヤルタ協定は戦後の国境を決めた国際法上の協定ではないし、当時日本はその存在すら知らなかった、知らなかったものに日本が拘束されることはあり得ない。 そもそも此処に云うソ連への千島列島の引き渡しは戦後の領土不拡大をうたった太平洋宣言とカイロ宣言に明白に違反している。

 ここで言う対日戦争への参加という事自体が当時有効に機能していた日ソ中立条約違反ではないか。  ヤルタ協約が何等何等根拠となり得ない以上、日本としては戦後の国際条約の中で領土問題に法的に根拠となるものは1951年のサンフランシスコ平和条約となる、 ここでは確かに日本は千島列島の放棄を規定しているが、この平和条約は放棄した千島の帰属先を決めていないし、千島の範囲も定義していない。

 この講和条約で吉田全権は「千島南部の国後、択捉の両島が日本領であることは、 帝政ロシヤも何等異議を挿まなかったのであります」と明言している。

 即ちサンフランシスコ平和条約では日本は国後、択捉の両島を放棄していないと 明言した」 (なお「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料」の(6)ニコライ一世のプチャーチン提督宛の訓令(1831)と(7)日露通好条約第2条(1855)に択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシヤ領と明記している。 

 このようにスターリン史観は徹底的に論破できるのである。

3、 スターリン史観の現在 この日ソ中立条約破りである北方領土の侵攻についてのスターリン史観なるものは 1946年5月の極東軍事裁判に際し、ソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露して世に知られるようになり、この歴史の改ざんをスターリンは国内のあらゆる文書その他の媒体を通じて国民に植え付けたとの事であった。

 独裁者の非行を可とする為に歴史を改ざんしこれを国民に信じさせる方策を国を挙げて行うとは恐ろしい国があったものである。

 スターリンはその後フルシチョフ大統領時に否定された、しかしそれ国内政治における悪行が否定されたのであって、日本との外交であるこの北方領土問題についての悪行は残って居たと思われる。

4、 ゲンナジー、ブルブリス氏の至言 この人はスターリン史観に汚染していない人物であった。この人がエリツイン大統領の国務長官であったときスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本への返還をするならば北方領土の問題の解決とロシヤの国益に矛盾は生じない、 即ちロシヤは樺太南部と千島の中部、北部のロシヤへの帰属の日本の承認を得られると云う利益を得るという説を述べたとの事である。  またスターリンの暴挙と云う点で、北方領土の問題と日本兵のソベリヤ抑留は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言して1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとのことである。

 この謝罪は今後の平和条約交渉において正式に文書で表わされるべきと考える。

5、 日ソ中立条約破りの犯罪性について この問題は平和条約の交渉とは別枠で討議するべき事と考える。 スターリン首相は日ソ中立条約の期限の8カ月前にこれを破って日本へ宣戦を布告して参戦した。この国際条約を破る犯罪性について検証してみよう。  

当時の事を振り返ると1945年5月8日にドイツ降伏の報を受けて日本政府は米英及び中国にたいして講和を申し出る事を決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいる友好国ソ連しかないと政府首脳は決議した。  

この和平交渉の仲介の依頼を伝える使者として起用した元首相広田弘毅氏のソ連マリク大使との折衝ははぐらかされて、何の回答も得られない。そこで政府は昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた、ところが佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。

この2カ月と10日の空費は大きかった。  ソ連側がなぜ態度を明らかにせず日を遷延させたか、あとで思えば中立条約破りの画策がそれにブレーキを掛けたとしか考えられない。  そして7月26日にポツダム宣言が発せられた。日本は7月18日から8日間では 次の仲介国を依頼する事ができなかった。

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 一方アメリカでは原子爆弾の開発が最終段階に来ていた。1945年7月16日にポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられた、大統領はこの原爆を8月3日以後なるべく早く天候を見て既に選定してある日本都市に投下するよう訓令を発した。  現実に8月6日に広島に8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、この2都市の住民、 老いも若きも、朝礼中の小学生までも422,200人が即死または原爆症で苦しみそして命を断ったのである。

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 こう見て来ると、もし7月26日のポツダム宣言の発表までに日本が和平交渉を申し出て居れば原爆の投下は見送られて居たであろう。ところがソ連の中立条約破りの 姦計の結果、日本の外交が時期を逸して原爆の投下となってしまった。  即ち原爆がもたらす惨禍についての責任の一半はソ連が負うべきと云う事になるのである。

6、問題解決の順序  以上いくつかの日ロ間にわだかまる問題をどの順に解決していくかを考えてみよう。

(1)上記5に述べた国際条約破りについては、それが行われた直後に東郷外相が「やがて世界の裁判がなされるべき事」と言明された、それが70年間行われていない、 それはその後に始まった日ロの領土交渉、平和条約交渉で、いずれロシヤ側が其の非に気ずくと期待したからであろう。ところがそれに気ずいたのはブルブリス氏のみで、いまだに交渉担当外務官僚が主張を変えないとすれば,取るべき手段は何か。世界各国の理解を得る事、具体的には国連への提訴である。
それには日本と殆んど同じ問題で先例の有る事を思い出して貰いたい。それは蔣政権とソビエトの中ソ友好同盟条約の締結とそれの破棄の経過である。 (中ソ友好同盟条約・・・この前段に米ソのヤルタ密約があるが、そこで蔣政権には断りなしに中国主権が侵されていることが盛られていた。
旅順港、大連のロシヤの優先使用、中東鉄路と南満鉄路の共同使用、外蒙古の独立等、蔣政権ではこれらを不満として宋子文外交部長と蔣経国をスターリンの許へ派遣して協議させた。この結果1945年8月14日にこの条約は調印された。

 ところがこの条約締結の直後スターリンは背信行為に出た、8月9日よりのソ連の日本側満州への攻撃が僅か2週間で東北3省の殆んど全域をソ連は手中に収め、かつこの3省をそっくり共産軍に渡した。  蒋介石総統はこの背信に激怒し国連に提訴した。
その結果1952年2月1日の第6回総会の決議でつぎのように罪行が確定した。 「ソ連は日本投降後中国国民政府が東北3省に於いて、主権を回復しようとする努力に対し終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事、経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。 本総会はソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約を未だに履行していないと断定する」  これを受けて中華民国は1952年2月15日に同条約の無効を正式に宣告した。)  この中ソ友好同盟条約のソ連による蹂躙と日ソ中立条約破りとは非常に類似しているのである。
したがって、今後 日本の取るべき道は、まず国連へ前記5に述べた国際条約破りの犯罪について提訴し裁定を求め、国際社会の合意をもとめる事と思うのである。

(2)その次ぎの段階として日露の領土交渉を改めて出直すことである。 ロシヤ側は過去に歯舞、色丹島の返還で領土交渉は終わったと云ったが、上記のように中立条約破りの不法が証明されれば国後、択捉島への侵攻は正当性を失うのであるから、国後、択捉島の日本主権の確認、と返還、さらに1、に示したかずかずの付帯した非行について決着をつけるべきである。
 また4、に示したソ連の謝罪が正式に文書化されるべきである。  これらが全て完了した後樺太南部と千島列島の中部、北部のロシヤへの帰属を日本が承認するという順序になるものと思う。

(戦後68年を振り返って 第17話 終わり 平成27年2月7日北方領土の日にちなんで)      参考文献        蒋介石秘録(上)   サンケイ新聞社                  

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2014年7月 9日 (水)

戦後68年を振り返って 第16話

戦後68年を振り返って 第16話

第2次世界戦争の末期に繰り出したスターリンの非行を検証する

 それは国際条約破りという形で2件現れたのである。
一つは日ソ中立条約破りで日本人なら誰でもが知って居る、今一つは中華民国とソ連が締結した中ソ友好条約であった。

1、 中ソ友好条約の顛末
この条約はヤルタ密約によるソ連の対日参戦の報酬として、特に中華民国の国権を人身御供に提供するような内容に蒋介石が不満を持ち、義兄宋子文と息子蔣経国をソ連に派遣し、スターリンと会談を持たせた際に生まれた条約であって1945年8月14日に締結したものである。 
 すでにその一週間前の8月8日に対日参戦したソ連軍は中国の 東北(満州)に大量の軍隊を投入し、中国領に深く進入していた、この軍隊をいつまでもそこにとどめる事は東北地方を共産軍の手に引渡すのに等しい。
中ソ友好条約はそれを防ぐ防波堤となるべきものであった。
 条文は連合国軍の対日作戦への協力、相互支援、平和維持への努力、両国の主権と領土の尊重をうたうことは当然であったが付帯条件としてソ連軍は日本敗退後3週間で撤退を開始し3カ月で完了すると記載された。
 ところがスターリンは条約成立と同時にこれを踏みにじるという背信行為に出た、満州に侵攻して2週間で東北三省全域を手に入れたソ連軍は3カ月で撤退するどころか東北三省をそっくり中国共産党に渡してしまった。
 激怒した蔣政権は国連に提訴して取り上げられ(常任理事国同志の争いなので拒否権の行使は無かったのであろう)1952年2月1日の第6回総会決議でつぎの判決が出された。
 「ソ連は日本投降後、中国国民政府が東北三省において主権を回復しようとする努力にたいし、終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事・経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。
 本総会は、ソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約をいまだに履行していないと断定する。」
 これを受けて中華民国は1945年2月15日、同条約の無効を正式に宣告した。

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 何という背信であろうか、ソ連と友好条約を結んだ結果偉大な穀倉、東北三省を中共に攫われ、長征で体力を消耗し、大躍進のみじめな失敗をした中共を蘇生させ、かつ中華民国は台湾にこもらなければならなかった、そのもとは人間技と思えないスターリンの非行であった。

 ローマ時代の大政治家、大カトーがいつも演説に付け加えた「ところでカルタゴは滅亡されなければならない」の言をまねれば
「ところでスターリンは否定されなければならない」と云おう。

2、 日本へのスターリンの背信行為
 戦後に明らかになった事実を総合すると、1945年2月4日~11日のヤルタ会談で秘密裏に対日参戦を言明したスターリンは着々と其の準備を進める、欧州戦線に張り付けた160万人の軍をソ満国境に送り返す作業である。これはドイツが全面降伏した1945年5月8日から開始された。これは隠密裏にすすみスターリンの構想どうり3カ月後、8月初めにソ満国境に配置された。
 日本の最強部隊である関東軍が展開するソ満国境に展開し日本への参戦の体制は整っていた。ただしこのソ連軍の行動は秘密裡であり、日本は全く気付かなかった。
 即ち日本への参戦、日ソ中立条約破りはこの5月から8月8日までに準備完了していたのである。
 このソ連の内情を全く知らない日本政府は同じく5月8日にドイツ降伏の報をうけて鈴木貫太郎首相は米英及び中国に対して講和を申し出ることを決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいるソ連に頼むしかないと政府首脳は決議した。これは当時誰が考えても至当な決定であった、アメリカに直接和を請うことは非常に条件を下げることになるので考えられなかった。
 ここから悲劇が始まることになる、国と国の考えのチグハグ全く正反対ははとんでもない方向へ進んでいくことになるのである。
 まず和平交渉の仲介を伝えるために元首相広田弘毅氏が行ったソ連マリク大使との折衝はすべてがはぐらかされてしまった。
 政府はそこで昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた。ところがこの佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。
 この2カ月と10日の空費は日本にとっては大きかった。アメリカでは原爆の製造が最終段階に来ていた、1945年7月16日ポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられ、大統領はこの爆弾を8月3日以後なるべく早く天候を見て、すでに選定していた日本各都市へ投下するよう訓令を発したと云う事である。
 そうすると8月3日以前に和平交渉が開始できていれば爆弾が完成していても投下されることは無かったのである。
 8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾の投下はこの2都市の民間人、老いも若きも朝礼中の小学生までも422,200人が被爆し即死または原爆症で苦しみその後に命を断つと云う惨禍、これを春秋の筆法でいうなら中立条約破りを秘密裡に着々準備しながら日本を裏切った行為のよって引き起こされたと云えるのである。

 「したがってスターリンの日ソ中立破りは人類に対する大犯罪を引き起こしたと断じなければならない」

3、 中立条約下でのソ連参戦
 1945年8月8日佐藤大使はクレムリンに呼ばれ、モロトフ外相から「ソ連政府は8月9日を期して日本と 戦争状態に入る事を宣言する」との通告書を渡された
 また東京ではマリク大使が8月10日に東郷外相を訪ねて右の宣言書を伝達した。
これほど酷い国際間のやりとりが過去にあっただろうか。
 この宣戦布告に対して日本政府はこの事実行為にどうする事も出来ず、ただ東郷外相は次の文書をソ連政府へ送った
「日本側においてはソ連邦とのあいだに長き期間にわたり友好なる関係を設定する目的を以って来たり居り、最近においても5月始めより広田元首相をして貴大使との間に話し合いを進めしたるが右に対しソ側より回答に接し居らず。尚7月中旬、人類を戦争の惨禍より救うためなるべく速やかに戦争を終結せしめんとの陛下の大御心により右をソ連側に伝達し日ソ間の関係強化、戦争終結に関する話し合いを為すための特使の派遣 を申し入れたるがこれにたいしても未だ回答無かりし次第なり。即ち我が方においては戦争終結に関するソ連政府の回答を待ち米英重慶三国の共同宣言に対する態度の決定に資したしと考え居りたる次第なり。
貴方にいては三国の共同宣言は拒否されたとされ居るところ、右が如何なるソースによりて知り得たるものなりや承知せざるが前述の事実に鑑み日本へ何等の返事をすることなく,突如として国交を断たれ戦争に入るるは不可解の事なり。
 東洋における将来の事態よりも甚だ遺憾なりと云わざるを得ず
 みぎはやがて世界の歴史が裁判すべく、今は本問題に付き話す事は差し控えたし」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦後70年間世界の歴史はこの事を裁判しなかった、私は本論を以っておこがましくもこれを論じようとして居る。
 多くの有志がこの問題を論じて貰いたいのである。――先へ進もう。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1945年8月9日未明にソ連軍は157万人の陣容で満州、樺太方面へ侵攻した、これに対する関東軍は75万人と云うもののすでに精鋭部隊は南方へ派遣された残りで装備も不十分であった。
 殆んど抵抗も出来ず広範囲な満州国境地区、北部、東部、西部、の各方軍は津波のように押し寄せるソ連軍に対して約1週間苦戦をしたが、8月16日関東軍総司令部から停戦の指示がされた、また樺太南部へは8月11日から侵入8月23日に停戦協定が成立した。
 ところが北千島、南千島への侵攻は様子が違った、占守島には8月18日、中千島の松輪島には8月26日に、ウルっプ島には8月31日に、そして以後今日まで問題となって居る択捉島には8月29日、国後、色丹島には9月1日に上陸して日本軍の武装解除をした。
 この北方領土への侵攻の日が問題なのである、日本のポツダム宣言受諾の8月15日から2週間以上を経ているのである。
 スターリンは8月15日の降伏を即日知って居た、だから8月16日に米トルーマン大統領に戦後の日本占領のソ連担当地区として北海道の北半分を要求して,翌17日にトルーマン氏から拒絶の文書が出されたと云う史実がある。
 したがって8月15日の日本降伏を知りながら北方4島の攻撃を差し止めなかった、不作為は戦後の歴史での大きな問題点である。それは次のような非人道的な行為として現れた。
 その後直ちに北方4島の住民17,291名は財産すべてを残して北海道へ移住させられた、それはこの命令に従わずに残れば、ロシヤ国民とされてしまうからであった。この人々は今や70年を経て孫の代になっているが望郷の念は消えていない。
 次に満州、樺太、千島、朝鮮で囚われた日本軍あわせて,陸軍581,600名、海軍4,000名、その他に満蒙開拓団の人々270,000名が1000名単位の作業大隊に編成されてシベリヤ、中央アジヤ、モンゴルに送られ、その後10年以上にわたる惨憺たる労働に服させられた。
 この事はスターリンの非行の4つ目に数えられる。

「したがって北方4島への侵攻は中立破りのスターリンの次の領土侵略であった」

4、 スターリン犯罪の連鎖
 日本を侵略国家と見、ソ連の中立条約破りは正義の為の戦いだとする歴史観を創作したのはスターリンであった、しかしこの史観なるものには容易に論破できる。
 ヤルタ協定なるものが第二次世界大戦の末期の連合国の戦後報酬についての密約であり、何等国際条約的な重みをもつものではなく、これを以って米英首脳の承認を得た対日作戦と云うがこれら首脳が黙認したソ連独自の行動であり、世界の国々を戦禍から守る聖戦であるとしたのは後から創作した理屈である。
 それが証拠にはこの事は米英ソ支の4国以外に誰も知らなかった、これが世界に知られることになったのは、1946年5月の極東国際軍事裁判でソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際を社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露したからであった。
 これは歴史の改ざんである、ところがスターリンはこれを国内のあらゆる文書、その他の媒体をつうじて国民に植え付けた
 恐ろしい国があったものである、独裁者の非行を隠すために歴史を改ざんし、これを国民に信じさせる。しかもそれはその後何十年も国をあげて実行されたとは。
 したがってその後歴代の大統領もこの史観に汚染されている、或いは国民の支持を得るためにはこの史観に反する立場をとることが出来ないと見られる言行が多いのである。
 このようなロシヤの国内情勢から北方領土問題は歯舞、色丹島の返還から先に進めなくなってしまった。

「したがって誤ったスターリン主義は断ち切られなければならない」

5、 ロシヤ国の先覚者の至言
 ゲンナジー、ブルブリス氏は1993年頃エリツイン大統領時に改革派の国家院議員であり、国務長官であった、この人が公の場で、ロシヤ正義のために北方四島は日本に返還すべしと発言した。
 それはスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本へ返還すると云うならば、北方領土問題の解決とロシヤの国益との間に矛盾は生じないと云う説を述べたとの事である。
 またスターリンの暴挙と云う点で北方領土の問題と日本兵のシベリヤ抑留問題は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言し1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとの事であった。(鈴木宗男、佐藤優著 北方
領土特命交渉より)

 ところでロシヤ国の国益と云う事を考えて見よう。遠い将来の世界の評価と云う事でなくても,直近の問題として南樺太(サファリン)とウルップ島以北の千島列島の帰属の問題がある。これらはサンフランシスコ平和条約で日本は放棄した、しかしそれらがどこの国に帰属するかはまだ決められていない。それは来るべき日ロの平和条約で日本がロシヤへの帰属を宣言すればロシヤの物になるのであって、現在これらを実効的に使用し名称をサファリン州などとしていても国際法上主権はロシヤには無い。

 まずこう云う実益がそこに転がっているである、ただしこれはロシヤ政府がスターリン主義を脱却してスターリンの非を認め、北方四島を日本に返還する事によって
平和条約の締結に進めることが出来るのであって、ブルブリス氏が国益に資すると云うのはこの事を指していると思われる

 ロシヤ政府に望むのはフルシチョフ政権時に行われたスターリン批判は国内政治の誤りの修正であったが、その時に取り残された外国との関係での誤り、上記の中華民国との友好条約の破棄と日本の中立条約破りの反省を実行しなければ、ロシヤは今後国際社会から認められる存在とはならないと云う事である。

 「したがってスターリンは再度抹殺されなければならない」

 (戦後68年を振り返って 第16話終わり 久保田英三 26,7,7)
参考文献
 蒋介石秘録  サンケイ新聞社刊
 北方領土特命交渉 鈴木宗男、佐藤優著 講談社刊
 ロシヤから見た北方領土 岡田和裕著 潮書房光人社刊
 トルーマン回顧録 堀江芳孝訳 恒文社刊
 戦後67年を経て 次代に託す諸問題 第3話~第6話 久保田英三ブログ

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2014年6月25日 (水)

戦後68年を振り返って 第15話

 
スターリン主義からの脱却・・プーチン大統領への提言

 北方領土問題が膠着している原因にスターリン史観が大岩となっているのは明らかである。

 ところで最近エリツイン元大統領(1993年頃)の知恵袋といわれたゲンナジー、ブルブリス国務長官の主張として[日本人がいらないと云ってもロシヤは北方四島を日本に返還しなくてはならない]という基本姿勢を持ち、スターリン主義を脱却することがロシヤの国益にかなう。
スターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本へ返還すると云うならば、北方領土問題の解決とロシヤの国益との間に矛盾は生じないという説を述べた事を知った。(鈴木宗男、佐藤優著 北方領土特命交渉 講談社版 264ページ)
スターリン主義の暴挙と云う点で北方領土問題とシベリヤの抑留問題は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言し1993年10月の公式訪日で天皇陛下、総理大臣に頭を下げて謝罪したとのことである。
また択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の名を挙げてこれらの四島の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結するというルールを定めた東京宣言に署名したと云う歴史であった。

 私はスターリンはその史観を強力に国内の各種機関を総動員して国民に押し広めたとのことであったのでこの史観が全国民に浸透してしまったものと、思っていたが、上記のような説がある事を知って、やはり知識人の間では事柄の是非ということは顕れるものとの感を深くしたのである。

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 そこでプーチン氏に対する提言であるが、一言で云ってスターリンの過ちをつまびらかにして、国際正義にもとずいてその誤りを正すべきが今であると云う事である。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは日ソ中立条約がある中で日本への宣戦布告は云うまでも無く完全に不法である。これを米英首脳の承知の上の行動であったと云う虚構。日本への攻撃が聖戦であるとする事実に反する宣伝。さらに戦争が終わった後2週間後の北方四島への侵攻とその後の居座り。
これらの悪事の連鎖を反省し、これらの誤りを正すべき時は今であると思考するのである。

それが何故に必要であるかといえば、それなくしては北方四島の解決は国際社会の理解が得られない、そしてどの国であろうと、今後のロシヤとの条約というものはいつ破られるかもしれない、良い加減なものという前提でしか結べないであろう。
北辺の2島を得るのにこのような国際評価を受けてそれがロシヤ国の国益に資するだろうか、この事を考えての上記のブルブリス氏の北方領土返還国益論であったと思う。
 

再述すれば、北方四島を日本に返せばロシヤの国益にかなう、なぜならそれでロシヤは正義を回復したと国際社会から認められ、ロシヤ人としての正しい歴史観が復活する。とブルブリス氏は説くのである。
 過去にフルシチョフ政権時スターリン批判がなされ多くの国内政治面の誤りが指摘されたようであるが、外国日本の領土奪取の行為がチエック漏れになっていた、これを今糺す必要があると云うのである。
 

さらにスターリン主義信奉を続けることは、むしろロシヤ国民を貶めることになる。あの偉大な文学を生み芸術を育てたロシヤ国民が、スターリンの誤りが判らないとは考えられないのである。 
 

プーチン氏にスターリン主義脱却への献身を期待したいのは今である。その理由は今や戦後69年 その間不法の侵攻をして門戸を閉ざし、かつ住民1万7千余人を北海道に強制移住の非行の憾みは消えていない、これを糺して正常な国際関係に戻すのは今なのである、それがロシヤ国の国益に資する道をたどる時である。
 

まず北方から自由平和な日ロ関係を構築することがロシヤ国にとっても大事な時期と思うのである。

(補足)
 スターリンの本音
スターリンが国際条約についてどう云う考えをもっていたかを示す資料があった。

それは1945年6月27日から7月12日まで蒋介石中国主席が宋子文と蔣経国にスターリンと中ソ友好条約について話合いを持たせた時の事であったが、蔣経国とスターリンが二人きりになった時スターリンが[国際条約というものは良い加減なものだよ]と話した。蔣経国青年はその以前3年間ロシヤに留学してロシヤ語に堪能であった。この若者にスターリンは心を許して話をしたのであろう。条約破りを決意したことを云ってしまったのである。(蒋介石秘話)

 国際条約破りの犯罪性
中立条約破りという非人間的な行為の犯罪ほそれを実行する以前、3カ月前1945年5月にあらわれた。5月8日のドイツの全面降伏の報を受けて当時の日本政府、鈴木貫太郎首相は米英および中国に対して講和を申し出ることにした。
  講和の仲介をどこに頼むか、中立条約の有るソ連に頼むしかないと政府首脳は決議した。
これは当時誰が考えても至当な決定であった、直接アメリカに和を請うことは非常に条件を下げることになるので考えられなかった。
 この仲介の事を伝えるため元首相広田弘毅氏が行ったソ連マリク大使との折衝はすべてはぐらかされてしまった。
政府はそこで昭和天皇の特使として近衛公爵を起用することにし、この事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた。この佐藤大使のモロトフ外相との打ち合わせたいとの申し出も遷延されて、7月18日になって拒否された。
 この2カ月と10日の空費は日本にとって大きかった、もし6月からでも和平交渉が開始されておれば広島、長崎への原子爆弾の投下は無かったのである。この2都市の民間人老いも若きも朝礼中の小学生までもが422,200人が被爆し即死またはその後の原爆症で命を断つという惨禍は無かったのである。
 

その後のアメリカの発表では原子爆弾完成の報は1945年7月16日ポツダム会談に来ていたトルーマン大統領に知らされ、大統領はこの爆弾を8月3日以後なるべくはやく
すでに選定していた日本各都市へ投下するよう訓令を発したと云う事である。
 

そうすると8月3日以前に和平交が開始していれば爆弾が完成していても投下はされなかった。
 春秋の筆法を以ってするなら日本2都市の原爆投下はソ連の話し合い引き延ばしの結果でうまれたと云えるのである。
 中立条約を破る事に罰則は無い、制裁も無い、しかしこのような副次的な罪禍が起こる事を知るべきである。

   (戦後68年を振り返って 第15話終わり 久保田 英三 26,6,22)
 

 参考資料
   北方領土,特命交渉 鈴木宗男、佐藤優著       講談社
   蒋介石秘録

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2014年6月 4日 (水)

戦後68年を振り返って 第14話

戦後68年を振り返って 第14話

中国習政権の東南アジヤへの揺さぶり作戦は何を意味するか

2014年5月21日に上海で開かれた、中、露など26カ国、地域が加盟する「アジヤ相互信頼醸成措置会議」での演説で習氏は「アジヤの問題はアジヤの人々が対処し、アジヤの問題はアジヤの人々が守る」と云ったとのことである。

 判り切ったことを云っているがこの人が云うと[よう言うわ、自分で乱しておいてアジヤの安全保障は自分等でやる]とは何ということだ。これはマッチポンプではないかと云わざるを得ない。

 
 日本の尖閣諸島へは未だに中国艦船が出没している、最近では西沙群島のパラセル諸島沖の石油掘削でブエトナムと衝突した。すべては中国が大きな軍事力を背景に事を起こしている。その中国が何を云うのか。

 ところで習政権発足後の彼の行動を見てくると、それは国外問題で点数をかせいで国内の支持を高めるやり方と思われる。それには世界で問題になるマッチポンプ的な言動も辞さない。

 即ち国内政治では20年来の鄧小平の共産主義内での資本主義の一部導入政策によって非常な問題となっている極端な富の偏在が漢民族のみの繁栄となって他の55の民族には行きわたらない、最近でもウイグル地区で騒乱がおきた、(この問題については習主席は今のところ武力制圧以外の手段をとる気がないようである)、このように国内が乱れるのは経済政策がうまく機能していないとしか見られない。

 このような国内の不満を抑えるために国外で点数をかせぐ姿勢が見え見えなのである。

ハタ迷惑な中国が出て来たものである。
 

そこで忠告したいのは習政権は国内経済を立て直し所得格差の是正,と共産党と政府上層部の腐敗の絶滅、(それは李克強首相が4カ月前に全力を傾けると明言した事であるが)を強力に進める事である。

 国の大きさを誇ることは意味がない、国内の融和こそ国家の使命である。56の民族の融和を日本国民はかたずをのんでみて居る.のである。 

   ( 戦後68年を振り返って 第14話終わり 久保田 英三 26,5,29 )

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2014年4月14日 (月)

戦後68年を振り返って 第13話

ロシヤのクリミヤについての対応と翻って日本の立場

 ロシヤ国が隣国ウクライナに手を突っ込み住民投票という法を無視した方法でクリミヤ地方の独立、そしてロシヤへの編入に進もうとしているらしい。
 このロシヤ国の西端の隣国ウクライナで起きた紛争にアメリカと欧州連合は、ロシヤの軍事力を背景にした領土の侵略行為であるとしてこれは許されないとし、日本政府もこれに同調して制裁をロシヤに課すると3月17日に決定した。

 ロシヤのこの行動は政権の領土拡大戦略を如実に示している、歴史的には1945年8月15日に太平洋戦争終了の2週間後の8月29日に択捉島と、9月1日に国後島に軍隊を侵入させ侵略しようとした事(この事については本ブログ第11話にスターリンの画策として詳述)と軌を一にする事柄である。そしてクリミヤと北方領土に共通する重要な事柄として不凍港がある事である。ロシヤは不凍港を必要として居るのはスターリンの時代から変わらない、世界地図上では取るに足らない地域であってもも軍事上の重要さは大きい。

 ところでこのロシヤのプーチン政権と現在北方領土と平和条約についての交渉を進めている日本は何とも難しい局面に立つことに成った。それはロシヤの国際正義にもとる行為に強硬な姿勢を示すアメリカ、EU諸国に同調する姿勢を示す必要があるものの、現在北方領土問題と平和条約問題で友好的に交渉を進めようとしている立場ではEU諸国とは半歩遅れてついて行くことになるだろう、と外務当局の弁と伝えられている。
 しかしこの問題はそのような曖昧な態度ですませられる問題とは思われない。現在択捉、国後島を侵略されつつある日本は、ロシヤの今回の擧について明確に非を糾す立場を示すべきと考える。
 北方領土問題を抱えているからと云って日本政府が及び腰になるのは国際社会の理解が得られるあろうか、むしろロシヤから侵略を受けつつある(択捉、国後島)国として大きな声を挙げるチャンスでは無かろうか。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そうすると安倍政権発足以来進みかけた北方領土問題、平和条約交渉はまた頓挫せざるを得ないであろう。まして西のはてウクライナで平和を乱す国と東のはてで平和条約など考えられることではないであろう。
 私は北方領土の日本主権確認を生涯の夢として来たが、このような情勢になっては私の寿命の有るうちには果たされないであろう、次代に託さざるを得ない。

   (戦後68年を振り返って 13 終わり 久保田英三 26,4,7)

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2014年2月 3日 (月)

戦後68年をふりかえって 第12話

中華人民共和国への忠告

私が生きて来た85年のあいだに見た隣国中国ほど大きく変化した国は少ない。
私のこの国についての理解は
Ⅰ、数千年前の殷王朝から十数代の易姓革命を経て高度の文明を築いた国
2、孔子、孟子等の学門を日本に伝え、文化的に大きな影響を日本に与えた国
3、ところが清国から現在の国に移行する間に混乱が続き、毛沢東の共産政権になってからでも目をそばだたせる事柄が続発して理解困難な国になっている。                     
大体以上のように総括してきたが、ここで特に毛沢東の政権樹立以来のこの国の動きを見て見よう。

Ⅰ、中国共産主義政権の挫折
毛沢東が1950年に中国共産党政権を樹立して、土地を国有化し人民公社を設立して経済運営に乗り出したがこれは人民の幸福と云う面から見て成功したとは言えなかった。それは桃原境を志向したものであったが人間の労働意欲の喪失、そして万元戸の出現に見られるように格差のある不平等社会となってしまったのである。
さらに膨大な国土に56の民族が生きる国、それは以前の清王朝の版図をそのまま継承した、一見大きな利益とみられるが実情は90%の漢民族が55の少数民族を支配することの
難しさを背負うこととなって居る。
 その後60年経っても国の政治が辺境に行きとどかない、少数民族の貧困の問題を抱える宿命を負うこととなって居る。

2、文化大革命
1966年に毛沢東が発動した文化大革命と銘打ったこの大衆運動は中国の伝統文化の徹底的な破壊運動であった。これは10年間継続して行われた。それを判断能力の無い、しかし暴行能力は持つ少年少女に無反省的に行わせた。
 寺院、教会は破壊され,孔子、孟子等先賢の学門は否定され古典書物は焼かれ、文化人、学者、教師は引きまわしの末自殺に追い込まれて以後は文化の大砂漠となった。
この10年間の文化大革命による死者は1000万人、被害者は1億人に及ぶとされ、遠い昔の秦の始皇帝が行った焚書坑儒の暴挙を大きく上回った。
10年後1976年に中国の伝統文化の徹底した破壊は達成された。

3、破壊された文化文明の行方
共産党独裁政権の体制下では政治権力から独立した文化、芸術の発展は許されない、文化芸術も政治に奉仕しなければならない、とされているのであり現在の中国政権も建前上この原則を維持している。
従って中国の青年から60歳台の者まで昔の中国の繁栄した文化を知らない、孔子、孟子の教えは日本人のほうがよく知って居る。

4、市場経済の導入、中国共産党の資本主義化
毛沢東が死去してから25年後、1978年に元の主席鄧小平が共産主義の転換を図る、
即ち市場経済を導入する事・・それは1992年に南巡講話で明らかにした白猫,黒猫論
(どちらの色でも鼠を捕る猫が良い)・・目的を達成するためにはどんな事をしても良い、・・
先富論(先に富む者から豊かになろう)と云う説であった。
 この共産主義での大転換によって中国経済は悪徳資本主義のレールを暴走する事に成る。一つの例として、土地の終身使用権の売却は地方官僚に権原がありこれが各地の大規模住宅の開発に関係ありと見られている、これが地方官僚の灰色所得につながっていると見られている。
 これは建前上は共産主義政権であるがその行動の中身において資本主義を実行するため
内部に多くの矛盾をはらみながらの暴走となった。しかし表面の経済指数では大きな経済発展であった。
 この市場開放経済の実施後に経済の有る部分で大きな発展が見られた。
2000年には実質経済成長率8,4%を示した以後毎年衰えを見せず2011年まで11年間平均10,2%と云う脅威的な発展となった。この成長を支えて来たのは、その期間の固定資本形成の寄与率が50%を超えると云う規律無き資本主義化を来たしたものとなって居る。
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薄重慶市書記事件
2012年3月に薄重慶市長に4800億円の不正蓄財等ありと温家宝首相が告発、重慶市書記は解任され死刑となった
党幹部の灰色収入
1014,1,23の新聞で租税回避地英領バージン諸島の会社を通じて現政権の最高指導者や前首相等の親族十数人が資産を運用しておりその額は2000年以降だけでも1兆~4兆ドル
の資産が中国から流出していると伝えている。
中国の古来絶える事のない官吏の灰色収入はどうしても末端から上部に伝播し、最高幹部まで巻き込むことになるようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5、愛国主義精神高揚運動
天安門事件の6年後、19995年10月10日に江沢民主席が政権基盤として打ち出した、若年者の愛国主義の洗脳運動であった。若者に民族至上主義の教育を徹底するため
全国に100か所の教育拠点を設けて実施した。
これは思うだに効果があったと思われる、孔子も孟子も何の道徳も無い中国青少年の処女地のような頭に強烈にうえつけられた愛国主義である。このことは吾々日本男子が昭和の初め小学校で繰り返し教えられ軍国少年に育てられ国の為に一身を捧げるのは当然という教えを沁み込ませられた教育と同様と考えられる。
 2010年に尖閣諸島の日本領土の宣言に中国本土の各地でおきた、日本企業叩きの中国若者の集団暴力、日本企業、商店はては大使館まで破壊、焼き打ち、略奪、など、そして口ぐちに愛国無罪と叫んでいたと云う、どうしてそんなことが起きるのかと不審に当時は思ったがその根元にはこの教育があったのである。
 中国の若者には政府が一言命令すればこう云う擧に走るおそれがある。
この愛国主義は充分に沁み渡っていると思われる、したがって日本から進出した企業はこの事を充分頭に入れておく必要がある。

6、 中国国民の所得格差
先に2011年までの11年間の高い経済成長の中に固定資本材の形成寄与率が50%を超えるとしたがこれが富裕層の出現につながっていると思われる。
それは総人口の0.1%の富豪層が全個人資産の41%を所有していると云う事に成って居る。政府は不動産投資の沈静をはかるため2010年4月に2軒目の住宅購入頭金比率の引き上げ、当地戸籍非所有者の住宅購入制限とう投機需要を制限すると策を講じているが中流以下の所得の拡大を図るには別の社会主義的な施策が必要であろう。

7、 結び、忠告
(1) 中国経済が改革開放され、共産主義経済が転換された1992年、それから20年余でその成果はどうであったか。残念ながら再び失敗したと云わざるを得ない。
 確かに経済全体は拡大した。2013年のGDP は前年比7,7%増。名目で56兆8845億元、それは世界第2位、日本GDPの2倍の大きさに成ったとのことである。
この経済の規模の拡大自体は13億の人口(日本の12倍)を抱える中国の発展であり、特に驚く事ではない。
ところがその強い成長の中に前第4項に見られる富裕層の資産の著しい拡大が存在し中流以下と甚だしい所得格差が生まれている問題と、その裏に地方官僚等の灰色収入が存在することはは見逃せない、これが改革は失敗したと云う所以である。
 この富裕層と中流以下の所得格差を現政権がどのように埋めて行くかを注目したい。
(2) 愛国運動についてである、
世界第2位の経済大国になった中国がまさか再び日本たたきに若者の暴力を煽るようなことは無いと思う、しかし西沙、南沙、尖閣等の諸島の領有問題にこと寄せて国民の感情を荒立たせるような事は大国としては慎しむべきであると思う。
(3) かつては中国の安い賃金、労働資源の豊富と大きな販売市場に着目し、一方生産力の向上への協力の要請を受けて立ちあがった日本の進出企業であるが、これも半世紀をへて今後の中国における合弁経営について再検討する時期が来ているのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
付録
元紅衛兵の反省
平成26年1月15日の新聞報道によると当時の紅衛兵20人が北京で[文革を反省し、忘却を拒否する]と題する座談会を開いたとのこと。
現在の習政権で毛の礼讃が進むなかで[若い人は文革をしらず、美化する風潮さえある]と危機感を表明したとの事である。
60歳を超えた元紅衛兵が反省、謝罪を公表した。
共産党は1981年に[文革は人民の大きな苦難をもたらした内乱]と総括しとの事であった。
この紅衛兵の一人は迫害した元教師に面会して謝罪したとのことであったが謝罪は毛沢東がするべきではなかったか、紅衛兵達は長いあいだ心にわだかまる暴行をやらされた者であり精神的には犠牲者であった、罪は毛沢東にあったのである。

 (戦後68年を振り返って 12 終わり 久保田英三 26,1,30 )

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2013年12月30日 (月)

戦後68年を振り返って 11

今に残るスターリンの画策

太平洋戦争の歴史をひも解くと、ソ連のスターリンの名が何度もでてくる、その都度日本の運命にかかわっているので本ブログでも何度か取り上げた。
今ここであらためてスターリンの行為を纏めて見ると彼の考えがはっきりと浮き出てくる、それには三つの時期があった。その何れもが日本の運命に強くかかわって居たのである。
この事を以下に検証し、最後に残る問題は何かを突き止めて見よう。

まず史実をざっと見て見る。  
Ⅰ、日ソ中立条約の締結 昭和16年4月13日
  この条約は(1)両国の平和、友好関係の維持と領土の保全、不可侵、(2)締約国の一方が第三国の軍事行動の対象となった場合他方は中立を守る事、(3)有効期限を5年とし期間満了の1年前に廃棄通告がなければ次の5年自動的に延長される、と定めた。

2、テヘラン会談 昭和18年11月28日~12月1日 (非公開、詳細は戦後に判明)
  米英首脳とスターリンがイランの首都で(1)イランの独立と(2)世界大戦の遂行と戦後の
  平和計画について三国の声明を発したが、極秘にドイツ打倒後シベリヤのソ連軍を3倍に増強して対日共同戦線に参加する事をスターリンが言明した。

3、ヤルタ会談 昭和20年2月4日~2月11日 (非公開、詳細は戦後に判明)
  米英首脳とスターリンが会談 (1)太平洋戦争の完遂と(2)戦後の国際連合の創設の協議 の他、秘密協定でソ連の日本に対する参戦の条件として、南樺太と千島列島の引き渡しを協議した。

4、日ソ中立条約の不更新の通知 昭和20年4月
  ソ連モロトフ外相より佐藤駐ソ大使に昭和21年4月25日をもって更新しない旨の通告があった、大使から来年4月25日までは従来通りかとの問いに、その通りとの 回答であった。

5、日本のその後の戦争終結への道
 5-1ソ連に和睦の仲介を依頼する事を鈴木貫太郎内閣が決定したのは昭和20年5月であった
  それは当時中立条約を結んでいたソ連以外に親密国はなく。直接米国に和を乞うこと  は条件を非常に下げることになるので考えられなかった。昭和20年6月この和睦仲介の依頼に広田前首相を派遣しようとしたが何の反応も得られなかった。
さらに7月13日付で昭和天皇の特使として近衛元首相を派遣することにしてこの趣旨を文書で申し入れたが7月18日にこの事も拒否の回答が出された。結局日本は和睦交渉の時期を3カ月間無駄に過ごした。

5-2昭和20年7月26日 ポツダム宣言が米英支三国名で発せられる。

5-3昭和20年8月6日広島へ、8月9日長崎へ原子爆弾投下される。

5-4昭和20年8月8日ソ連が日本に対して宣戦布告、翌日未明より侵攻開始

5-5昭和20年8月15日昭和天皇のポツダム宣言受諾の終戦の詔勅を米英支蘇の四国に発して降伏

6、、昭和20年8月16日 スターリンがトルーマン米大統領に占領地として北海道の北半分をソ連が担当する事を要求したが,翌17日に文書で拒否された。

7、昭和20年8月29日 択捉島にソ連軍侵攻

8、昭和20年9月1日 国後島にソ連軍侵攻

以下、スターリンの画策の検証に入る。
上記の史実を見るとスターリンは三つの野望を日本の終末にくりだした。
まず中立条約が有るに拘わらず、2のテヘラン会談と3のヤルタ会談で日本への攻撃を言明した事、この時期を特定していないがドイツ降伏後三カ月ということはそれらの会議で話の中にあり、したがって日本攻撃は中立条約の有効期限以内の話なのである。
 これらの会議は当時日本は全く知らなかった。極秘の内にこの野望が練られたのでる。
 そしてソ連は5-4 日本に対する宣戦布告と参戦、すなわち画策の実現に進んだ。
これで米英首脳に言明した事を実行したから、南樺太と千島に手が届いたとスターリンは思ったであろう。
 しかし彼の野望はそれに留まらなかった、それはすでにテヘラン、ヤルタ会談の時以来、彼の心の内にあったであろう、この大戦の終結をソ連の功績とすることであった。だから160万人の兵を3カ月かけてソ満国境へ送りこんだのである。
この第一の画策は悪質この上もない行為であった。中立条約の有る中での日本攻撃。それは罰則は無い、破った場合の制裁も無い。しかし文明国が為すべき行為ではなかった。
 条約国日本は夢にもそんな事が起きるとは考えられず、したがって最後までソ連を親密国と信頼して和平の仲介を依頼しようとしていたのである。それを堂々と破ったソ連と云う国は徹底的に非難されなければならない。

 ところが参戦したのち1週間後に日本はポツダム宣言を受諾して降伏(上記5-5)したのは原子爆弾の威力が判明したのが原因であった。
 (8月6日と9日に広島と長崎に投下された原子爆弾2発によって、両市は壊滅し住民
421,000人余が死亡という脅威的な威力であった。
この爆弾をトルーマン米大統領は8月3日以後準備が出来次第投下せよという命令をだした、それは性急すぎたと云う声もあったが、彼にはソ連の対日参戦より1歩早く原爆の威力を知らしめる意思があったものと思われ、それはその意思どうりに進行した。)
 スターリンはこの事実を悟らざるを得なかった。

 次にスターリンは第二の画策を繰り出す。それは6の北海道の半分の戦後占領の要望であった。これはトルーマン大統領にも、マッカーサー駐留軍総司令官にも拒否されて不発に終わった。
 このスターリンの第二の画策を私達が知ったのは戦後のことであるが当時ドイツが東西に分けられた悲劇を思えば、同様の危機を未然に防止してくれたトルーマン大統領とマッカーサー進駐軍総司令官に感謝の念を捧げなければならない。
 (なおこの北海道占領の画策にはスターリンの東洋において不凍港を持ちたいという希望・・それは上記2のテヘラン会談で蔣政権に対しての大連港の優先使用要求にも表れている。またウラジオストック港は冬季は砕氷船が必要なのである。・・またこの不凍港の希望は今もロシヤの希望として生きていると思われる。・・が潜在していると思われる。)

 なお、この時に米ソの冷戦が始まったと思われる。

スターリンは第二の画策が失敗したのが不満であったのであろう,直ちに第三の画策に着手する。。
7の8月29日の択捉島侵入と8の9月1日の国後島侵入である。
戦争が終わって2週間も経た時期である。この第三の画策の問題の核心は彼が8月15日の日本国の降伏宣言を知って居た事である、だから戦後の進駐軍として北海道を占領すると云う要求をだした、それが容れられないと知ると上記の2島に侵攻させて、そして戦争は9月2日まで続いたと云う説を作り出した。全く論理的にも説明のつかない行動であった。
 9月2日は日本の連合国に対する降伏文書の調印式、儀式の日であって、戦争終結の日では無い。
 スターリンの暴挙はこれら2島を戦争によって獲得した土地であるとして、サハリン州に編入した。
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 この第三の画策は第一、第二とは全く別個の事柄であった。
まず国後と択捉の二島は帝政時代のロシヤの時代の1821年9月4日のアレクサンドル一世の勅令にはクリル諸島(ロシヤ領の千島列島)はベーリング海峡から始まり、ウルップ島、北緯45度50分に至るまでの島々をロシヤ領としている。
次に、1863年2月24日のニコライ一世のプチャーチン提督宛て訓令でもクリール諸島の内ロシヤ領の最南端はウルップ島であると明記されており、
1855年の日露通好条約第二条に日露の国境は択捉島とウルップ島の間にあり、択捉島全島は日本に属す]と明記されている。(以上3点は日露両外務省作成の日露間領土問題に関する共同作成資料集による)
 このように帝政ロシヤ時代の3回の政府文書で明確に日本領とされ、その後何の変更も無い日本領、択捉島と国後島へ太平洋戦争終了後に侵攻させたスターリンの第三の画策は明らかに何の根拠も無い侵略と見なければならない。スターリン史観では説明できない事になっている。
 (なおスターリンが8月15日の日本の降伏、したがってこの日に大戦が終了したことを知って居たと云うことは、彼がその翌日にトルーマン米大統領宛てに発した北海道の北部へ進駐軍として占領の希望を述べた文章を参照すれば充分であろう)
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以上に見たように太平洋戦争の末期にスターリンの画策によって日本の運命が大きく左右された、その余波が北方領土の問題として未だに残り解決されないで68年を経過しているが、最後の問題、すなわち太平洋戦争は昭和20年8月15日に終わりそれ以後の択捉、国後島への侵攻、占領は違法である事を主張しスターリンの最後の誤りを糾して北方領土問題を終結に導く事が正義であると信じる。

(戦後68年を振り返って 11 終わり 久保田 英三 平成25,、12,15)
 

 

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2013年11月25日 (月)

戦後68年を振り返って 10

日本の近世回顧、日本はどこへ行くのか(2)

4, 戦後の混乱期
 昭和20年の終戦を境として日本はすべてが変わった。開闢以来の外国との戦争に敗れた事、それが生易しいことで済むとは思われなかった。
私はあの生活が目茶苦茶になった戦争が終わって安堵したものの、今後国がどうなるのか、アメリカの思うようになるのかと非常に不安であった。
だから私達若い者は希望も持てず、腹をすかして気力も起こらず虚脱状態に陥った、一億総虚脱とも云われたのである。
 アメリカの進駐軍はいち早く20年9月初めには日本に到着して軍政に着手した。そして14項目の施策を早々に示した。
(1) 軍事力の粉砕 (2)戦争犯罪者の処罰 (3)代表制にもとずく政治形態を築く (4)憲法の近代化 (5)自由選挙を行い婦人に参政権を与える (6)政治犯を釈放 (7)農民の開放 (8)自由な労働運動を育てる (9)自由経済の促進 (10)警察による弾圧の廃止 (11)自由で責任ある新聞を育てる (12)教育の自由化 (13)政治的権力の集中排除 (14)宗教と国家の分離 
であった。これらは軍政ならではの苛烈さで急速に実施された。中には実施の段階で的外れの事もあった
 (2)に関しては本間雅晴中将の処刑がある。昭和16年12月22日に本間中将は第14軍司令官として兵員6万5千人と共にフイリッピン、ルソン島に上陸、以後バターン半島を南へ進軍した。これに押されて米比軍は南に後退、マッカーサー司令官はコレヒドール要塞に立てこもったが17年3月11日にマッカーサー一家と幕僚がこの要塞から脱出してオーストラリヤに逃れた。一方日本軍は4月8日から第二次バターン戦に入ったが翌9日から続々と大量の投降兵が出た。米兵5万人比軍3万人、計8万人に達した、バターンの密林にはこれらの収容施設は無く、60km北方のサンフェルナンドの収容施設に入れることとした、米軍が所有のトラックは自ら破壊していた、8万名の捕虜は徒歩で収容所に向かい、中にマラリヤ、デング熱の病人も多く、これらに死者があった。
この大量投降の原因は指令官の脱出(逃亡)を知った兵が戦闘意欲を失って日本軍兵力を上回る投降者を出したところにあったに拘わらずマッカーサーは日本へ進駐してまず本間中将の逮捕を命じ極東際裁判で死刑を宣告して処刑したのは明らかに誤りであった。
 (4)の憲法に関しては日本側の草稿を進駐軍司令部で大幅に修正された、戦争放棄を含む
点その後種々論争を起こしたが戦後68年を経て改正の機運にある。
 (8)の労働運動についてはこの施策の実施によって政党運動の自由が確保され日本共産党は復活し、その後有力幹部のソ連から帰国もあって勢力を増す事になったが22年2月1日のゼネストを直前に進駐軍指令部より禁止令、ついで22年3月、トルーマンドクトリンにより米ソ間の冷戦に対応して25年6月に日本共産党の24幹部の公職追放をGHQ から吉田首相に要請があり、これらの幹部は地下に潜らざるを得なくなった。
ここで太平洋の西端に位置する日本が反共の第一線として重視されるアメリカの姿勢が明瞭に示された。
 (9)と(13)に関連するが財閥の解体が行われ企業経営者の交替が広く行われた、一時はこれで経済力の低下が心配されたがそれは杞憂に終わり、かえって若い経営者により企業活動の活性化につながった。
 (12)の教育については歴史の見直し,修身教育の廃止が大きい.、修身教育では確かにそれによって軍国主義が完成された。しかし道徳教育までが全廃となって特に青少年の心の拠り所とするものが無くなった、諸外国ではキリスト教、イスラム教等で若年者の心の持ち方を教えているが日本の宗教は微弱である。68年間日本では道徳教育がされず
人の尊厳が軽視される社会現象が頻発することとなった。最近になって道徳教育の復活が論じられるようになったのは遅きに失したとはいえ一歩前進である。

 このように14項目の施策は中に功罪相半ばする処もあるとは言うものの、その後の日本の社会経済の骨格となったことは事実であった。

 この14項目には無い事であるが、日本の皇室の処遇についてのマッカーサー司令官の対応の変化が進駐軍のその後の行動と軍の早期の帰国につながったと思われる。
それは昭和20年9月27日に昭和天皇が宮内大臣のみを従えてマッカーサー指令官を訪問され 「さきの戦争の全責任を負う者として、私自身を、あなたの代表する諸国の採決にゆだねる為にお訪ねしました。」との言葉にマッカーサー氏が心から感動した事から,同
氏の日本国体に対する理解へと進んだと思われる。
マッカーサー氏の昭和天皇への信頼と尊敬の念が日本国の見直しにつながったと思われるが、14項目の完遂の後間もなく進駐軍は帰国し永く軍政下に置かれるのでないかと云うおそれは消えた。

5、戦後の復興期
 1方でマッカーサー軍政がある中で昭和21年に吉田茂内閣が生まれて、本格的な政党政治が行われるがこれが7年間の長期政権となり、その後20年間自由民主党が担当することとなる。
 そのはじめには吉田首相の親米路線を基軸とした確実な政権運営に寄せた国民の信頼があったのがこの長期政権につながったと思われる。

5-1、マーシヤルプランによる援助 
 昭和23年にアメリカが打ち出したマーシヤルプランの東洋における実施として日本の太平洋沿岸の石油精製施設に対しアメリカから膨大な援助がされ,戦災からの復興の他、設備の増強がされ日本の石油精製工場がすべて完備されたのは米ソ対立の冷戦に備えるアメリカの政策によるものであった。
この石油精製工場の拡充整備はその25年後に起きた中東産油国の原油売り惜しみの石油危機に日本は泰然として居られたのである。

5-2朝鮮戦争による特需発生
 マーシヤルプランの意図は的中した、昭和25年6月に朝鮮の北緯38度線を越えて勃発した北朝鮮軍との戦いはただちに在日アメリカ軍の出動となって戦いは朝鮮全道に拡大し膨大な軍備の需要となってこの兵站基地の位置にある日本は大きな特需をこうむることになる。
まさに漁夫の利を得たのである。
 日本の産業界が受けた利益は大きく兵器産業、重工業、造船業その他あらゆる製造業がこの時から発展する事になる。

5-3 所得倍増計画と船団行政
 昭和35年代の池田勇人内閣で打ち出された所得倍増計画は前記の各産業の発展の波に乗って勤労者の所得倍増となって実現されて行った
昭和36年に500億ドルであったGNP が41年には1000億ドルとなった。。
 この頃の日本経済の発展の裏に官僚の成長とその指導のもとに船団行政の実施がある。各省の指導原理として船団が航行する場合一番速度の遅い船に合わせることにより全船が無事に目的地に到達できるという考えを採用し各省、各業種を行政指導した。この官僚と民間企業の麗しい関係が長く続き日本経済の発展を支えたと思われる。

6、 列島改造論とバブルの発生
 昭和47年に始まった田中角栄内閣で打ち出した列島改造論は意外な展開をする事になる。それは日本経済の進展、国民所得の拡大にともない値上がりしはじめた土地の価額、株式等の証券の価額の値上がりが激化した事である。すなわち土地バブル、証券バブルが生まれ育って行ったのである。

6-1 NTT 株式の公開
 昭和62年竹下内閣時に行われたNTTの民営化で国民一般にNTTの株式を持たせる政策を実行した。第一次の公開値119万7千円、第二次公開値250万円、しかしこの株価はバブルで膨れ上がったものであった、国民も民間企業もまだまだ値上がりすると信じて争って公開に応じた。ところがこの株価はその後まもなく下げに転じ15年の間に40万円台になってしまった。
この民営化は政府がバブルを利用して国民の資産を2兆円余り収奪しただけの結果に終わったのである。
 (国営企業の民営化はその前年英国のサッチャー首相が行った事を倣ったものであった、
 それは安い値で国有企業の株式を従業員に持たせ、利益配当も行い、当時全く勤労意欲
 を失っていた従業員にやる気を起こさせて、さしも蔓延していたイギリス病を1年で回
 復させたのであった。同じような株式公開であったがこれは東西の政治家の哲学の
 相違によると云う事だろうか、この株式を持った国民の怨嗟の声だけが残った。)

6-2リクルート株の問題
 平成元年に発覚したリクルート(株)の未公開株を自民党の多くの幹部に贈与された問題もバブルがからんだものであった。これが表にでて竹下首相は平成元年4月に辞任する。

6-3 日本長期信用銀行の抹殺事件
 この事件も元をただせば土地バブルに起因するものであった。
先に述べた日本産業の発展につれて資金を銀行貸し出しに頼る必要が少なくなり借り手不在の状況を呈してきた、そこへ登場したのが土地の急激な値上がりに乗じた都市開発、ゴルフ場開発等のリゾート開発等の事業であった、それらは大きな資金が必要である、そして開発に成功すれば大きな利益を生むが失敗の危険も大きい。
日本長期信用銀行はこの流れに乗った。
 この長銀の志向に目をつけたのが民主党の一議員であった。この議員が長銀の名をあげて国会の予算委員会で数字を挙げてこの銀行は破綻に瀕していると述べた。
この発言は国会議員は国会内での発言で他に損害を与えても責任を問わないと云う憲法の規定を盾にしたものであった。とは言ってもこの発言の威力は凄まじかった。国会テレビ放送のあと直ちに長銀の窓口には取り付けの人であふれた。それは7000億円以上の資産の消失となって、結局その次の決算では1500億円余の純資産は残ったが事実上存続は不能とみなされ金融再生法でとりつぶされた。
 この事件の裏にあるのはその時国会は衆院は自民党多数、参院は民主党多数とねじれていた。民主党の攻勢によっては法案は成立しない。民主党員はそこを狙った。結局自民党は長銀を潰して民主党の御機嫌を取り法案を成立させることとした。
 長い期間の自民党の政治で一番の失政であった。

長銀の問題はこれだけでは終わらなかった、株価算定委員会が平成11年3月に長銀株価0円と全株主35,445名に通知したのち、一株主である政府はその持ち株をリップルウッド社に10億円で売りこの額の新生銀行(長銀の後継銀行と自称している)の株式を取得、さらに元長銀の資産からあがる収益を新生銀行の株式として現在4億6913万株の筆頭株主になって居ると云う株主平等の原則に反する行為をしているのである。
 長期銀行の取りつぶしは更に日本債券信用銀行にも及んだ、銀行界はこの巨大な2行の最期を見て衝撃を受けると共に対策を講じる。それはメガバンク化と業務の見直し、中でも不良債権排除のため貸し渋り,貸しはがしとなってあらわれ融資については消極的になり、産業育成の機能は失われてその後の長期不況の原因の一つになっている。

 昭和21年の自由党以来自民党と名を変えて60年間余政権を握り功績も多かったのであるが、上記の幾つかのマイナスの事柄は国民には自民党体質の金属疲労と見られたのであろう、平成21年の総選挙で民主党に席を譲る事になるのである。

7、民主党への政権移譲
 平成21年8月の衆議院総選挙で民主党は308議席を獲得して自民党から政権移行となった。しかしこの国民の選択が正しくなかったことは半年もたたない内に明白となった。
まず党首鳩山首相の脱税事件、同氏の沖縄米軍基地をめぐる迷走発言で馬脚を現した。
この党は多くの公約を掲げていたが次々と公約違反があらわとなった。ガソリン税暫定税の撤廃、高速道路の無料化、特に後期高齢者医療保険の改善不能で高齢者をいからせた。
鳩山氏の東アジヤ共栄圏構想は内容不明であったし、当時実力者であった小沢一郎氏の150人の国会議員を引き連れての中国、北京詣では党の姿勢に疑念を持たせた。
鳩山氏が沈没して首相を引き継いだ菅氏は折からの東北大地震での東京電力原子力発電所の被災、原子核物質漏れに関連してヒステリックに原子力発電全廃の発言で国民に不安を持たせた。
 この間3年半の外交不在とも云うべき政権運営であったために近隣の諸国にわが国土を窺われる事になる。国後島へのメドベージェフ、ロシヤ首相の入島、竹島への韓国大統領の入島、尖閣諸島への中国船の接近、これらの事件が起きる元は日本の政権のぐらつきにあったと思われる。
 最後に登場した野田首相が僅かにプーチンロシヤ大統領と会談し北方地域の開発努力に合意したのは将来のロシヤとの関係の好転につなげる事になったが、総じてこの3年半は国民は政権交代を望むのみであった。

8、自民党の復活、安倍第二次内閣の誕生と将来の展望
 平成24年12月の総選挙で自民党が大勝して安倍内閣となった。漸く政治不在から立ち直ったのである。
安倍首相はアベノミクスと称して永年のデフレの脱却と経済の向上を目指し、また外交関係ではまず米国との修交のほか東南アジヤ諸国との友好を深め、またロシヤとはプーチン大統領と会談して関係強化を図った。
 この懸案のロシヤとの関係強化はさらに外相と防衛担当相の2+2の会合がひらかれ、安全保障上の問題から今後北方領土の問題に進むことが期待される。
 私は北方領土からさらに広く千島北部、サフアリン、カムチャッカ迄もの開発へ日本の協力と云う事を目指すべきであると思う、その中で開発拠点として北方四島に拠点を作り日本人の居住を目論んでいる。単に北方四島のみを見るのでなく、もっと広い視点で解決することを提案しているのである。

9、日本の将来
 
さてさらに10年後の将来を展望してみよう。
経済を発展させる、それは資源の少ない日本のお家芸である、特に知的産業が柱になるでしよう。しかし30年前の経済大国を目指した誤りは繰り返さない事です。経済の赴くままではなくて国の統制、行政の指導が必要です。
そして財政を豊にして軍備を拡充して外敵を防ぐ用意をする事です。
 ここで思い出すのは平成12年10月に来日した中国の朱熔基首相が日本人記者の、日本の将来についての質問に対して[25年後には日本と云う国は存在しない]と答えた事です。
これは中国人一般にこの考え方、それは中華・・世界の中心・・思想から導かれた、いずれ台湾と同様日本も中国の一省になると云ったのであろうと思われます。
 それから10年もたたない平成21年に民主党政権が出来るや、実力者小沢一郎氏が150人の民主党代議士を引き連れて中国政権首脳部を訪問したのは思うだに危険な行動であったと言わざるを得ません。
 その後間もなく尖閣諸島への中国船の接近事件から中国の攻勢が強まっています。
その他韓国の前大統領の竹島への上陸、これらの事件が物語る近隣諸国の攻勢には武力で対抗するほかありません。
 平成25年11月に政府は海上自衛隊のイージス艦を増強する計画を発表しました、海に囲まれた日本を守るには軍艦、それも小型で威力のあるイージス艦を将来倍増・・16隻位に・・するべきと思います。それを問題のある海域に配備する事です。
 その他航空自衛隊、陸上自衛隊の増強は言うまでもないことで、このための防衛予算は倍増する必要があります。
 ロシヤとの関係では現在進みつつある外相級の交渉を進めることで道が開けると期待します。
ロシヤのスターリン史観を修正できない限り北方四島の完全復帰は実現しないでしよう。
すなわちこの問題の正面突破は困難ですから迂回して北方開発への日本の協力に伴って国後、択捉島への入植、開発基地の設定の必要が出て来るのでないか、そこに元島民の人達の移住の可能性を探るべきと思います。
 千島北部、サフアリン、カムチャッカ等の開発は非常に大きな計画になります、したがってこれに協力と云うことは日本側として相当に腹を括る必要がありましよう。
 その次の問題は東南アジや諸国との関係の深耕です、すでに安倍首相はこれらの国を漏れなく訪問して足場を築きました。これらの諸国は太平洋戦争で日本側にマイナスの面もありましたが、日本軍進駐の後に英、仏、蘭等諸国から独立と云う歴史もあり、それは決して日本のお陰と云うものではなく、それぞれの国の努力によるものですが、独立と云う方向へ進んだのです。
現在進みつつある友好関係を深めて共存共栄の地域として連携を深めるべきです。
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 以上、実現不可能なことは言っていません、過去に、アジやの西端をじっと守ってきた日本が領土をもがれた、昔の姿のままでアジヤにおけるスイスのような平和な国として生きて行く道を探りました。

  (戦後68年を振り返って 10 日本の近世回顧、日本はどこへ行く 2
   終わり 平成25,11,5 久保田 英三)

 

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