戦後67年を振り返って

2012年12月23日 (日)

第二十五話

戦後67年間の政治、経済の回り舞台

 この67年間を振り返ると社会的事象に色々な動きがあった、その中で私は無我夢中ですごしてきた訳であるが、いま思い返してみるとそれは大きな回り舞台を見るようである、ちょうどこのブログも中締めに差し掛かったと思われるので以下にこの回り舞台を見てみよう。

第1景 終戦から昭和24年まで 自民党の礎、吉田内閣
 敗戦で都市は焼け野が原になった。国がどうなるのか誰にも判らなかった。
国民の頭は虚脱していた。
逸早くアメリカ占領軍が上陸して東京にGHQを構え軍政をはじめた、それは14項目にわたり1、軍事力の粉砕 2、戦争犯罪者の処罰 3、代表制にもとずく政治形態を築く 4、憲法の近代化 5、自由選挙を行い婦人参政権を与える 6、政治犯を釈放 7農民の開放 8、自由な労働運動を育てる 9、自由経済の促進 10、警察による弾圧を廃止 11、自由で責任ある新聞を育てる
12、教育の自由化 13政治的権力の集中排除 14、宗教と国家の分離
これらが着々と実施されていくのを国民は茫然と見守るばかりであった。
昭和21年に吉田茂首相のもとに自由党政権が出来、これが自民党長期政権の礎となる。
なお上記2に関連して民間業者の首脳につき公職追放が行われ、企業経営者が若がえり企業に活力が芽生えた。
昭和23年にマーシャルプランによる太平洋沿岸部の石油精油所の整備増強が特筆される。これはアメリカのマーシャル大将の提言で米ソ冷戦下の一触即発の危険な位置に在る欧州、極東の地域にアメリカが資金を投じて予防的な措置を講じたものであった。

第2景
 昭和25年から50年まで 官僚政治の成功
この間政権は鳩山一郎氏、岸内閣、池田勇人氏、(所得倍増計画)佐藤内閣、田中角栄氏、(列島改造論)と自民党の独裁が続く。
昭和25年6月に北鮮軍が北緯38度線を超えて朝鮮戦争が始まり、直ちにアメリカ軍が乗り出し、中国が北朝鮮軍を応援することになった。
この戦争は冷戦下の米ソのイデオロギーの先端地区での衝突を意味するものであり,第1景のマーシャルプランの的中でもあったが、側面で日本に特需景気を齎した。
日本の産業はこの思わぬ漁夫の利に預かり、戦争の荒廃から立ち直りかけた所へ発展の加速がついた。
経済界はこの頃から活況が続く、昭和31年神武景気、34年岩戸景気、41年いざなぎ景気、と10年間好況が続くのである。
この好況の連続、それは戦後10年の緩やかな復興期間を含めて20年に及ぶ期間であったが、その根底にはアメリカの冷戦に対する防衛線としての日本重視、
この基本思想を体したマッカーサー司令官の他の戦勝国を排除しての日本軍政の完全な遂行という事が存在していたと云える。
それに対する日本政府の全面的な信頼姿勢、すなわち対米一辺倒の姿勢の結実と思われる。
又この日本経済進展の裏に官僚の成長と経済界への官僚の浸透が挙げられる。
戦後何十年の経験で官僚が民間掌握をするようになった、その一つに船団行政がある、各業界の行政指導の根本原則をこれによるのである。
船団が航行するには一番速度の遅い船に合わせる事に依り無事に目的地に全船が到着する、これを各業界の指導原理とした。
損保業界などは最もはっきりしていた。日本で営業する社数は21社に限定し保険料率は最小会社が利益を上げ得る率とし、これを全社協定料率として協定を認める独占禁止法の例外規定を制定して各社に守らせる.かつ定期的に所轄官庁が検査に赴きダンピングを監視する。
こう云う官僚と民間企業の麗しい関係が長い期間の経済成長を実現させたと見られる。
(この行政指導による民間産業の発展は自民党の政権が続くなかで長く力を発揮するが、その源は初期の岸首相、池田首相、佐藤首相は官僚出身であり官僚機構の整備をし、その知識、力を存分に活用したことが、戦後30年におよぶ経済繁栄に結びついたとみられる)

第3景 バブルの発生と成長 昭和56年から64年まで
 前第2景にその萌芽と見られる列島改造論、所得倍増計画があるがそれに伴い、国民の所得は大きく伸びて有卦にはいるが、その足元でバブルが生まれ大きく育って行くのである。
一つの例は山一証券の株価は昭和55年に265円が61年5月に1060円と約4倍になり、その頃新聞株式欄に1000円以下の銘柄はなくなった。
株を持つ者は大きな利益を得て海外旅行が大盛行であった。
 土地の値上がりも大きく、特に大都市都心部の土地の買いあさり、地上げの横行から都市周辺ゴルフ用地開発など土地のバブルがふくらんでいった。
 NTT株式公開の問題
昭和62年竹下内閣時に行われたNTTの民営化で国民一般に株式を持たせる政策であった。第一次公開値一株1197000円第二次公開値25000000円、しかしこの株価はバブルでふくらんだものであった。その後15年のあいだ下がるにさがり400000円台となった。この民営化は政府がバブルを利用して国民の資産2兆円余を収奪しただけの結果に終わった。
国営企業の民営化は其の前年に英国でサツチャアー首相が行った国有企業の株式公開に倣ったものであった、それは安い値で国有企業の株式を従業員に与え、利益配当も行い、それに依りやる気を起させて、蔓延していたイギリス病(従業員が全く働く意欲を失っていた)を一年で回復させたのと大違いであった。日英政府の要路の人の哲学の差であった。

第4景平成元年から10年まで
 平成になってもバブルは続いていた、その証券バブルの申し子のようなリクルート事件が起きる。これは竹下内閣の瓦解につながるが昭和63年から平成元年にかけて 自民党の多くの領袖にリクルート(株)の未公開株が贈与されて大もうけをさせたたもので、これが発覚して竹下首相は平成元年4月に辞任した。
 その後数人の首班が自民党から出、また一時村山社会党首の首相もあったが
兵庫県南部地震で苦労があり平成8年に辞任、再び平成8年、自民党政権が復活し橋本政権がバブルの後処理として住専問題に取り組む。
ついで平成10年小渕内閣の時にバブル経済が行きずまり金融安定化法案を策定する動きがでてきたが 、ここで大問題が起きた。
それは野党民主党の一議員が日本長期信用銀行を名指して予算委員会で数字をあげてこの銀行は破綻に瀕していると述べた、この発言は国会議員は国会内での発言に依り他に損害をあたえても責任を問わないという憲法上の規定を盾にしたものであった。とは云ってもこの発言の威力は凄まじかった。国会テレビ放送のあと長銀の窓口には取り付けの人であふれた。それは7000億円以上の資産の消失となって、結局その次ぎの決算には1500億円余の純資産は残ったが事実上存続は不能とみなされて金融再生法に依って取りつぶされた。
この事件の裏に其の時国会は衆院は自民党、参院は民主党とねじれていた、民主党の攻勢如何に依っては法案は成立しない、民主党員はそこを狙った。結局自民党は長銀を潰して民主党の御機嫌を取り法案を成立させることとした。
折から小渕首相は訪米し大統領と長銀については13兆円の公的資金を投じて存続させると話し、帰国の途に就いた、ところがその間に自民党の幹部の民主党の機嫌取り策は決定されていた。首相はなにも云わなくなった。
その直後小渕氏は病死した。永い期間の自民党の政治で一番の失政であった。
(なお民主党員の議会での凄まじい発言は,長銀に取り付けを起こさせるというものであり、犯罪である。憲法で議員の発言について院外で責任を問われないと規定されていても、それは人間として為すべきでない犯罪であった。国会開催中の総理以下多くの議員の監視のなかで行われた犯罪、こんな事が民主世界の他のどこでなされたか例は無いだろう
 ねじれ国会では常にこのような事が起きる訳ではない、それは議員の人格に依る。そんな人を選んだ者の責任と云う事になる。)

 長銀の問題はこれだけでは終わらなかった、株価算定委員会が平成11年3月3日に長銀株価0と全株主35445名に通知したのち一株主である政府はその持ち株をリップルウッド社に10億円で売りこの額の新生銀行の株を取得、さらに元長銀の資産から上がる収益を新生銀行の株式として現在4億6913株の大株主として配当収入を得ている。その後10年余その額は莫大なものになっているが元株主には何のご挨拶も無い。この株主の権利平等の原則に反する政府の仕打ちが未だに残る問題である。

 長期信用銀行の取りつぶしはさらに日本債券信用銀行に及び長期信用大手三行の内二行が取りつぶされてしまった。昭和29年に特別法を制定して債券發
行の権限を与え産業金融に大きく貢献した長期信用銀行が35年でその使命を
果たしたと云っても、その整理の仕方は無残であった。
 銀行界はこの巨大な二行の最期をみて衝撃を受けると共に対策を講じる、それは
合併によるメガバンク化と業務の見直し、中でも不良債権排除のため貸し渋り、
貸しはがしとなって顕れ、総じて融資について消極姿勢となった、中世の冒険貸借から發した産業育成の機能は失われてその後の長期不況の原因の一つになっている。
 現在の銀行は国債購入と大衆から集めた預金との利鞘稼ぎの機関となっている。

第5景 平成11年から24年まで
 平成12年ころからアメリカでサブプライム・ローンなる住宅ローンを材料とした金融商品、バブルそのものでありこれが平成20年にリーマンブラザース証券会社の破綻となり、我が国にも大きな影響を与えた。
一方日本の政界は平成5年から細川、羽田、村山の非自民党の時期が3年はあったが其の他の期間は60年間の超長期自民党政権を維持し20名に近い首相を繰り出していた。これは世界の近世政治史でも稀なことである。
 平成8年に橋本政権が自民党の帰り咲きを果たし、また自民党政権が続くが平成13年に小泉政権が生まれる、この人は自民党に古くから存在した利権政治と官僚の二つを標的にし構造改革を掲げた。しかし平成14年には不景気は深刻化した。小泉首相は郵政事業民営化、のほか外交面で対米協力姿勢を示し、総選挙で自民党圧勝に導いた。その5年の後から1年ごとに安部、福田、麻生の3自民政権が続く。この中で平成14年から日本経済はいざなぎ景気を超える長期の経済成長が実現された。しかし労働者への分配率は低下した。
 平成21年8月に総選挙がおこなわれ、民主党が308議席を獲得し戦後はじめて選挙による政権交代がおきた。
民主党は多くの公約をかかげ官僚支配を打破して政権運用にのりだした、生活保護家庭への母子加算、子供手当の創設、高校無料化、農家への戸別所得補償は実現したが、後期高齢者医療制度の改善、ガソリン税の暫定率廃止、高速道路の無償化は実現せず公約違反となった。また沖縄米軍基地の移転について鳩山党首と閣僚の発言を異にし、その後菅首相に移り、おりから起こった東日本大震災による大津波による原子力発電所の事故に関してヒステリックに原發全廃を唱えるなど総じて民主党は政権負担能力の欠如を露呈した。この党としての能力不足は野田首相になってやや改善されたが、この3年間の民主党の外交不在の姿勢を見た周辺3国、ロシヤ、韓国、中国は日本国周辺の島嶼の領有を画策する動きに出てきた。これらに対して遂に有効な策を取れなかった。
 こうして平成24年の12月に総選挙が行われることになる。

第6景 平成25年から
戦後67年を経て漸く舞台は変わる、24年12月の選挙で民主党、古い自民党の支配から脱し、次にどのような政治が始まるのか、それが自民党になっても、過去の自民党であってはならない、そして願わくば強力な二大政党による責任を持った政権交代による民主政治の到来である。そして憲法を改正して力強い日本の足踏みを始める事を願うのである。
    (平成24年12月17日 戦後67年を振り返って次代に託す諸問題終わり  久保田 英三)
 参考文献
戦後政治史 石川真澄、山口二郎著   岩波新書
日経会社四季報     日経新聞社

 

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2012年11月 7日 (水)

第二十四話

日本国債よ、どこへ行く

こう云うことを言い出すのは、さる2012年10月10日の新聞に日本の金融機関が大量に日本国債を保有している事について、懸念する報道があったからである。
それは東京で開かれた国際通貨基金(IMF)の総会での中間報告であって、日本の銀行資産の内、日本国債の占める割合は2011年で24%に上り、数%から10%の水準にある主要先進国に比し際立って高く、5年後には30%まで上昇する可能性がある、その時に国債金利が1%上昇すれば日本の銀行の自己資本は26%も減少する、と危険信号を出したのである。

ものの本によればバブル崩壊後の日本で数次にわたる経済政策によって大量の国債が發行されて来たに拘わらず、景気は基本的に反転せず、巨額の国債残高だけが残る結果となった。その事をIMFが指摘したのであり、意外な所からの指摘であった。
この問題を正面から論ずることは私ごとき素人に出来る事ではない、それは日本の経済、財政、金融の全般にわたる大きな問題で、すでに多くの学者が日本に近ずく金融危機の問題として様々に論じられているが正解が得られているとは思えない。
しかし素人評論家である私がこれに関して思う事があるので以下にそれを述べる。

Ⅰ、日本国債の現状
問題を整理するために日本国債の状況をみてみると、国債發行残高は平成元年に160兆円程度であったものが平成15年には549兆円に達し、これはGDP比では155%であり米英仏等の51%から69%に比し際立って高い。
そして平成15年の国債保有者別内訳をみると民間金融機関が192兆円(33・7%)となっている。識者によるとこの金融機関保有分は国債情勢に何等かのショックが生じた場合には過度に一定方向に一斉に動くおそれがあると指摘されていた、すなわちIMFの警告以前に金融機関の大量の国債保有の持つ危険性は別の面から云われて居たのである。

2、金融機関の国債保有拡大の背景
 
基本的には銀行の金あまり状態である、金を貸すところがないのである
それは国内の製造業が戦後数十年の高度成長で体力をつけて銀行離れしてきたことも大きい
 それにしても現在の銀行の姿は何という事だろう。昭和30年ごろから30年間に日本産業の盛況に貢献した銀行業はどこへ行ったのか、その昭和60年頃に花と咲いたベンチャー融資の盛況はどこかへ行ってしまった。

 今は銀行は有り余った預金資金で国債に投資して利鞘を稼ぐ存在になった。
現在の銀行の消極姿勢は平成0年頃の巨大債券發行銀行2行の取りつぶし、それは政治抗争の結果であったが、これが銀行の積極姿勢の芽を摘んでしまった面がみられる。
 こんな老人の繰りごとを並べても詮無いことであるが、金を貸すと云う本来の姿勢を忘れて国債で利鞘を稼ぐ金融業の姿勢に、国が悪乗りして大量の国債をたやすく売れる銀行に売りつけた15年間が現在の姿になっている。

3、国債管理政策の方向

 冒頭に述べたIMFの警告に対する答えは結局我が国の国債管理政策に行きつくようである。
 平成11年以後、多くの種類の国債を財務省は發行して来た、それは利用者のニーズに合致した商品を提供して来たわけで、この中に金融機関のニーズに合致した物が多く買われて現在の姿になったのであろうが、これが危険性を内在している事は前述の通りである。

 それは金融機関保有分についてのリスクである。ただしこれには国の対処も難しい。
 こうした背景から財務省は海外投資家と個人投資家の国債保有に高いプライオリテイーを置いているとの事である。
最近の数字では
 海外投資家の日本国債の保有は2004年に21、4兆円(シエヤー3,7%)
 家計部門の   々       々   14,5兆円( 々  2,6%)
 この統計から数年を経ているがこの数字はそれほど大きく変化はしていない
 だろう。

 ところで個人投資家に財務省がプライオリテイーを置いているといわれても
現実には郵便会社には国債のパンフレットは無く、請求をすればパソコンで募集要項を打ち出してくれるが社員の姿勢は国債よりは定額貯金の方が便利だと勧めるのが現状である。
 このような販売末端の姿勢では国債が売れる筈がない。

4、国民からの注文
 
 現在、国民個人の利殖活動は沈滞の極みに在る、歴史的に見ても最低のラインでは無かろうか。
 銀行の定期預金10年で0,1%の年利率
 普通預金にいたっては 0,003%の年利率
このような零に近いような金利でも社会制度の変化から個人は普通預金の口座を開く事をせまられている。
 すなわち個人の金を零に近い金利で銀行は預かり、これをまとめて国債の購入等で利鞘稼ぎが出来ている。この構図は国民の資産の収奪に他ならない。
 こう云う視点からみても個人向け国債の制度を拡充する必要があると考える。
まだまだ箪笥預金はあるだろうし、老人資産も眠っているだろう、これらが個人向け国債に向かうよう国民に周知せしめることが必要と思う。
 企業が保有する国債は期末に評価損があればこれを期末に経理計上することが義務ずけされて居る、しかし個人には全くそのような事はない。したがって
個人向け国債を拡大することは時宜にかなっている。

 そこで具体策であるが
(1) 個人向け国債利率のアップが第一
国債一般の利率は兎も角として、個人向け国債の利率の低い事が他の有利な点を帳消しにしている。特に海外投資家向けでは日本国債の格付低下と低利で人気を無くしている、せめて利回りを良くして魅力を付けるべきである。
(2) 個人向け国債では平成14年に廃止になった○優、小額貯蓄非課税制度の復活
(3) 海外投資家にたいしては魅力のある物価変動国債が税制上の理由から海外投資家を排除している事の改善
(4) 以上の改正の上で積極的に国民と海外へのPR
(5) 金融機関の保有国債に予想される評価減については、各協会で構成員の国債収益の一部の拠出により基金を創り、これを毎年積み上げて有事の際に役立てることも一案と考える。
このような施策を進めることがIMFの指摘への一つの答えになると思う。
   (平成24年11月10日 第24話終わり 久保田 英三)

参考文献
 現代金融論 川波洋一、上川孝夫著  有斐閣ブックス
 金融読本  島村高嘉、中島真志   東洋経済新報社

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2012年10月21日 (日)

第二十三話

核兵器廃絶の悲願(続)

 核兵器廃絶については、このブログ第8話,第18話、第19話と語りついできたが、この問題はいくら言っても言い過ぎることではない。

それは我が国のこの悲願を1946年の国連の第一回総会でとりあげられ、そして核軍縮の形で討議されてきたが、悲しいかな戦勝国(常任理事国)5大国の自己保存願望の結果、各国はむしろ核兵器開発競争に走って水爆を生み、その38年後の1984年にはこれら5カ国合計で61.447発と云う天文学的な数の核弾頭を保有する事となった(第8話)。

 その後若干の削減となったとはいえ、現在これら5大国と認可外の数カ国とで合計5000発以上の核弾頭が全世界に保有されていると云う事(第18話)。

 すなわち表面では核兵器廃絶をとなえても実態面では何の効果も生まない現実、多くの賢人が集まった国際会議での結論が人間の愚かさの極限を示す現状を見れば、この願いはいくら口を酸っぱくしても言い足りるものでない。

 第19話では日本国民が心から願い、叫び続けた核兵器廃絶が戦後67年を経ても実現しない現実に絶望した筆者がせめて世界の人、特にアメリカ人に広島、長崎を訪れ平和記念館を見学し、最後の戦争文学「黒い雨」を読むべきだと云った、それによって原爆の凄まじい恐ろしさの理解、したがって兵器として使用できるものではないと云う事の確認から再出発するべきだと考えたのである。

 2012年8月6日と9日の広島と長崎の平和記念式典には米、英、仏各国の大使が参列し、アメリカ、トルーマン大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエル氏も参列した。

 アメリカ大使ルース氏は式後何のコメントも無く立ち去った。
この米大使の行動を推察するとこの人の理解は、原子爆弾が日本国民、一般市民にむごい災害を与えたと云う事だけでは無くこの爆弾は兵器では無かった、悪魔の人類殺戮の道具であったことに思い至ったのではなかろうか。戦争に使用するものでは無かったと云うことではないか。

 新聞報道によればダニエル・トルーマン氏は祖父トルーマン元大統領の残した手記で今後絶対に核兵器は使ってはならないと書き残しているとのことである。

 この事に考えが及べば米大使としては公人としての発言が出来なかった。
現在アメリカは国連を介して核兵器軍縮を進めているが、それは決して核兵器の零化を目指して居ない。

 本音は核兵器は零にしたいという考えを持っても建前としては言えない。
これが米大使無言で立ち去った背景であろう。

 こう考えて来ると日本人が、また世界の人々が危惧している問題の核心は、国連を介しての核兵器廃絶の願いが核軍縮---核弾頭保有数の制限と云う事に堕したことに帰着する。

それはこの核軍縮を討議する人の頭が核爆弾=通常爆弾の威力の大きい物、という感覚にしかなって居ないのではないか、それは次ぎのようなこの問題に関連した歴史に現れている。

 *1954年にアイゼンハウワー政権はソ連が西ヨーロッパに軍事進攻した場合には、即時に大量の核兵器で報復を加えるという「大量報復作戦」 を表明した(ブログ第8話)。
  (当時アメリカは1400発、ソ連はⅠ20発の原爆保有であった。)
   この時アイゼンハウワー氏はこの爆弾1発で20万人が、しかも一般人を巻き込む災害をもたらす物と云う事の認識は無かったと思われる。この爆弾の大量使用がヨーロッパの大きな部分を根こそぎ壊滅させると云うことに考え及んでいない。

*現在アメリカとロシヤは各2200発までの核弾頭の保有を認め合っている(ブログ第8話)
  それは他の国が束になってくれば1000発以上になるから、それに対抗する為には2200発が必要と云う理屈らしい。
これは何という事だろう、言葉を失うのである。
日本でたった2発の原発で42万2千人の人が殺された、これをそれ程大量に使うと云う。そう言う事態がいずれ来ると云うのだろうか。
これらの討議をする人々の頭にも核兵器を通常の爆弾の威力しか認識が無い事を示していると考える。

 この様に考えて来ると、国連を介しての核軍縮は我々が願望する核兵器廃絶とは全く異なる事柄と云う事になる。

 それでは困るのである。日本は軍隊は無くしたと云っても自衛隊は有り、アメリカ軍の駐留もある。大国の戦争に巻き込まれて核爆弾をばらまかれる
恐れなしとは言えない。

 やはり世界の多くの人々、特に各国の元首が広島と長崎を訪れ、平和記念館を見て貰い、「黒い雨」を読んで、これが悪魔の手が齎した災禍であると云う事を,よくよく認識してもらうしかない。

 今年も広島と長崎の原爆忌が行われ、それから日が経ったが、この核廃絶の願いは毎年8月に声を挙げるのみでなく、常に世界に向けて發信するべき事と思っている。

(平成24年10月19日84歳の誕生日 第23話終わり)

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2012年9月26日 (水)

第二十二話

竹島、尖閣諸島についての問題、進んで中国との経済交流の暗礁

1、 平成24年の夏から竹島、尖閣についての領土紛争がクローズアップされた。これは日本領土への侵犯であり、これに関して文芸春秋10月号に31人の日、米、韓人の提言が寄せられた。
 その論調は多くの人が隣国の挑発行為に断固たる態度をとれない現政権の弱腰外交についての批判が目立つ、(10名)
現政権の態度の根元にある日米の信頼関係の崩壊を挙げる人もいる(2名)、確かに日米関係の再強化は必要であろう。
 次ぎに多い意見は竹島、尖閣問題を国際司法裁判所への提起である(7名)、他に北方領土問題も含めて提訴と云う人もあった(1名)
 憲法改正、国家安全保障会議の設立、陸上自衛隊、海上保安庁の能力向上の意見もあった(3名)
 付随した大問題、北方領土に及んで、プーチン大統領が今夏メキシコで野田首相に交渉を呼びかけたのに対して野田首相は双方の外務大臣に交渉させるとして、プーチンを失望させたと云う意見もあった(1名外交評論家)。しかし私はそれで良かったと思う。
 両国の外務省が1992年3月から6カ月を掛けて作り上げた、日露領土問題に関する共同作成資料集を克明にたどる事から北方領土問題を一から検討しなおす事が必要なのである。
いきなりプーチン大統領が出てきて領土問題は前の大戦で結着した、国 後、択捉はロシヤが獲得したのだとの一言でかたずけられては何も残らない。外相同志でじっくり話し合って---と云う事はこの問題の最初に立ちかえって進めるのが正しい方向だと思う。 

********************************

    
この文芸春秋の記事から結論として導かれる事は日本の現政権がもっとしっかりして貰わなければと云う事である。
いみじくも文芸春秋が領土問題の深層としたのは、国内的には現政権の持つ弱点を突いているように思われる。

2、処でこの記事の出たあとで大きな出来事が起きたのは尖閣問題から派生した大衆騒動事件である。これが今回の領土問題の国際的な深層となった。愛国無罪と云うスローガンを掲げた民衆の抗議、破壊、放火、略奪
の行為が日系企業に向けられた。
当初は官憲もこれを黙認し、ために日系公館、日系企業の損害は大きかった、しかし柳条湖事件81周年記念日に当たる9月18日には過熱しすぎる恐れがあったので、さすがの中国官憲も大衆の沈静化を図ったので大変な事態は避けられたようであるが、日系企業はすべて休業する羽目となった。
 この民衆運動は極めて大きな側面を持っている事に注目するべきである。一旦9月18日を境にして沈静化しても、今後どこで何時燃え上がるかも知れない炎なのである。
 大きな問題は日系企業の進出ぶりである。元をただせば30数年前に鄧小平氏が来日して松下幸之助氏に中国経済の活性化を依頼してナシヨナルの中国工場の設置に端を発したものであるが、その後円高、輸出不振にあえぐ日本企業が労働力豊かな中国への展開、合弁生産に進んだ。
 しかしこの10数年間の日本企業の展開の際に忘れられがちなのは、昭和12年から8年間の日本軍閥が中国大陸の主要部を踏みにじった歴史である。その土地に50年後に日本企業が進出した事、勿論アメリカもドイツもフランスも進出した、しかし異なるのは日本陸軍が踏みにじった土地に日本企業が舞い戻ったことである。
 進出企業は円高、輸出不振を回避する純経済的行為であったが、そこへ排日感情までは考慮出来なかった、あるいは戦後の長い年月でそれは
消滅したと考えたかも知れない。
 そう考えてくると意外な処から燃え上がった排日思想について日本経済人は熟考するべき時と云える。
すでに中国での展開に限界を感じて効率は劣るとも東南アジヤ諸国への展開を考えている企業もあると聞く。
 そうすると中国の経済活動はそれだけ小さくなる、しかしそれは次ぎに述べる事情からやむを得ない事であろう。

3、中国の特殊性
実質一党独裁の中華人民共和国、それは抑圧政策と軍部と官憲の締め付けでなりたっている。膨大な土地と人権を無視された10億の民を治めるには時に応じてのガス抜きが必要であった。
 記憶に残る際立った事件は文化大革命による四旧の打破、これを思考能力の無い子供の紅衛兵に実行させて昔の焚書坑儒を上回る社会改革を実現した。
 その後にも天安門事件での人民虐殺があった。
その後制度の矛盾解消策として一国二制度の実施、富める者から富めば良いという不平等主義。
 それから10年軍事大国をめざし着々東南アジヤで地歩を進めてきたのである。その中国政権の目にとまったのが尖閣諸島である、そしてその成り行きとして民衆の愛国、排日思想が高まってきた。
 中国政府も意外な高まりをみせるこの民衆運動を沈静させるべく躍起になり出したようであるが。この民衆運動の根が上記2のようなことであればそう簡単に収まるとも思えない。
 エコノミックアニマルである日本企業は過去の日本軍部の蛮行が決して中国民衆から許されない事、したがってその進出に限界がある事、まことに難しい国である事を悟るべきである。
 したがって中国へ進出している企業は出来るだけ早く転進を考えなければ仕方がない。

 昭和20年の敗戦時に当時の中華民国総統、蒋介石氏は「怨みに報いるに恩を以ってする」として対日戦時賠償を取らない事としたそのツケが60年後に日本に降りかかったとも考えられるのである。

(平成24年9月20日  第22話終わり )

 

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2012年8月26日 (日)

第二十一話

戦後67年を振り返って 次代に託す諸問題 
  (第21話)

北方領土論(その6)

 前第20話で 2、千島列島の歴史と日露の国境について、1853年のロシヤ使節プチャーチンと幕府の間で結ばれた条約で両国の国境が択捉島とウルップ島間の水道に定められ、だからその南に在る北方四島はその時以後日本領土であることが確認されているという文脈で説明したが、その主旨は誤っていないのであるが、この国境がその後に変更になった事情を説明して居なかったので補足説明をしたい。

 それはその22年後の1875年の樺太、千島交換条約で千島列島(ウルップ島以北の諸島)が日本領となった。すなわちその時に日露の国境はさきにさだめられた水道からはるかに北の占守島とカムチャッカの間の水道に変化した。
この事は1895年6月8日の日露通商航海条約で修正された、もっともな事であった。

 (さらに千島列島は時代の波に翻弄される、太平洋戦争の終戦の後1952年のサンフランシスコ平和条約で日本は再び南樺太と千島の主権を放棄した。
この主権がどの国の物になるかは来るべき日露平和条約で確定する事柄であり、
従って今は日露の国境は特に定められていない、多分それは択捉島とウルップ島の間の水道に戻るのではないかと思われる)

 さてここではっきりさせて置かなければならないのは、1853年の日露の条約以後揺れうごいた千島列島の主権での千島列島というのはウルップ島以北占守島に到る諸島を指すと云う事である。
 それより南の択捉島、国後島、歯舞諸島、色丹島は北海道に属する島々である。

 ところでサンフランシスコ講和会議で吉田首相(日本代表)が明瞭に発言して北方領土に対する全権各位の注意を喚起した演説は次ぎのとうりであった。
 (中略)
 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全
 権の主張は承服いたしかねます。
 日本開国の当時千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシヤも何らの異議を挿まなかったのであります。ただウルップ以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。
 1875年5月7日、日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部を露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は、1905年9月5日ルーズベルト・アメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス条約で日本領となったのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

 また1952年3月20日(昭和27年)サンフランシスコ講和条約の批准に当たってアメリカ上院は請求権の帰属先についてソ連の領有権の確認を否定した。したがってロシヤが樺太南部、北千島を実効支配しているとすればそれは全く不法な事である。

***********************************

 北方領土の問題を考える際に先ず樺太、千島の歴史とその地勢的な関係を正確に把握してかからないと藪の中に入ってしまう、3回に亘る千島列島の割譲はウルップ島以北の諸島であり1875年の条約ではそれらの島々の名前まで明記されている。そしてそれに含まれない北方四島は古来北海道の一部である事、これらの事は「日露間領土の歴史に関する共同作成資料集」(日本外務省、ロシヤ連邦外務省作成)が360年前からのこの地域の正確な歴史とこの二国間の交渉の詳細な記録であり、日露両国及び全世界にインターネット配信されているが、これを熟読すれば現在しこっている北方四島の問題は自ずから氷解すると考えるのである。
 日露の人が誰でも読むことが出来るこのインターネット資料を読んで北方領土問題の正しい解決と平和条約締結に進むことを願うものである。
(平成24年8月20日  第21話終わり 久保田英三)

参考文献
 北方領土の真実[300年の歴史と将来への提言]
       中名生(なかのみょう)正昭著   (株)南雲堂
  日露間領土の歴史に関する共同作成資料集
          日本外務省、ソ連邦外務省作成  1996年及び2001年版

 

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2012年7月22日 (日)

第二十話

北方領土論(その5 総括)

戦後67年経ったがこの問題は解決しない、それは何故か?
私は第二次世界戦争中に起きた事件の中で、各国の指導者が行った行為のなかで人間としてなすべきでなかった重大事が3つあったと考える。
 その1はヒットラーのユダヤ人大量虐殺、2はスターリンの国際条約破りの対日参戦の実行、3はトルーマンの日本に対する原子爆弾2発の投下である。
 このうちソ連の国際条約破りの行為がその後遺症を生んで北方四島への不法侵入に進み、これがしこりとなって、ソ連、ロシヤとの領土問題は膠着して和平の端緒さえ見えない。

 このブログですでに第5話、第6話、第12話、第15話とこの問題に関して述べ、また北方領土の歴史にも簡単に触れて来たが、ここで改めて歴史を詳しく見つめて問題解決の道筋を模索して行こうと思う。
 (折しもメドベージェフ、ロシヤ首相が日本の政治混乱の隙をついて2年ぶりに国後島に来たと云う、これはプーチン大統領に歩調をあわせる事を示す行為のように思われるが、これは歴史認識の誤りに根差している、この両人の誤解をたださなければならない。)

1、樺太(サハリン)の歴史
 このことは北方領土の問題とは異なり殆んど結着がついている事であるが近似した事情が介在して領有が揺れ動いている地域であるのであらかじめ頭にいれておいて貰いたい。
・樺太については江戸時代に松前藩が経営にあたっていたが開発については消極的であった。一方ロシヤ人もいくらか移住してきたが同じような状態であった。
・1821年に幕府の直轄地となり函館奉行の統治下におかれその間数次の探検がおこなわれた
・1808年から09年の間宮林蔵らの踏査によって樺太半島説の誤りが確認された。
・この島の領有については1855年の日露和親条約で日露間の境界を分かたず、
これまでの仕来たりの通りと定められた。
・1867年の樺太島規則によって日露共有とした。その後日露両国の開発がすすむ。
・1875年の樺太、千島交換条約で駐露公使榎本武揚とロシヤ外相兼首相ゴルチャコフの間でサハリン全島をロシヤ領とし、ウルップ島以北のロシヤ領千島(クリル諸島)を日本領とした。
またサハリンの日本人漁業権を認める条約も調印した。
・その後日露戦争後のポーツマス条約によって樺太の北緯50度以南(島の約半分)が日本領とされた。
・日本は1907年に大泊に樺太庁を置き大量の移民により開発を行った。また1925年に締結した日ソ基本条約によって北サハリンにおける各種の利権を得て
北樺太石油会社、北樺太鉱業会社が経営された。
・1945年8月9日の対日宣戦により8月11日に樺太南部に侵入し8月23日に停戦となった。
・1951年のサンフランシスコ平和条約によって日本はサハリンにおけるすべての権利,権原、請求権を放棄した。
(ただしこの会議にはロシヤは参加していないからロシヤに主権が移動する訳ではない。日ロの平和条約が結ばれるまでは無主の土地となっている。
その後現在までロシヤは南サハリンで幾つかの経済活動をしているがそれは何等権原のある事ではない、それは実効支配と云われる行為であるかもしれない。)

 以上のように幾多の変遷をくりかえして来た南樺太の土地は1951年以来宙ぶらりんになって居るのである。

2、千島列島(クリル諸島)の歴史と日露の国境
 
・ 1640年頃オランダの東インド会社の航海士がこの島を発見したのち日本の松前藩が地図を作製、その後ピヨートル大帝の命により千島探検の企画もあった。
・1754年に飛騨屋九兵衛が千島アイヌと交易。
・1798年に近藤重蔵が択捉島に(大日本恵登呂府)の標柱を立てた。
・1799年高田屋嘉兵衛による漁場開発あり、ロシヤもウルップ島確保に努めた
・1853年に来日したロシヤ使節プチャーチンと幕府の間で結ばれた日露和親条約によって、両国の国境は択捉島とウルップ島間の水道に定められた。
・1875年の樺太、千島交換条約によって千島全列島は日本領となった。
・1952年第二次世界大戦後サンフランシスコ平和条約で日本は南樺太と千島の主権を放棄した。
 
【この時に返還した千島列島はどの部分かと云う問題であるが上記1853年の国境確定後この国境以南の択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島(所謂北方四島)はその後何等変更はなく、 具体的には1853年に確定された国境より北、ウルップ島、シムシル島、マツワ島、シャシコタン島、オンネコタン島、バラムシロ島、アライト島、シュムシュ島の8島と付近の小島が日本が放棄した千島列島なのである。】
  (なおNHKテレビの気象欄に出る北海道の図には択捉島、国後島がえがかれているそれが正しいのである)

3、北方四島についての諸国の協定の投げかける問題
 戦後現在までの北方四島の問題の発端は昭和18年11月28日のテヘラン会談と昭和20年2月4日のヤルタ会談で定められたとなっているがそれは米、英、ソ三国の秘密協定であり、日本はあずかり知らないことであった。
 その攻める側の三国が、ソ連が日本との中立条約を破って、ドイツが降伏後。3カ月後に日本に160万人の兵を以て攻撃すると云う、恐るべき謀略を取りきめ実行した。そしてその報酬としてソ連に南樺太と千島列島を引き渡す等の条件を付けた。(ブログ第3話)
 戦後アメリカでもヤルタ協定の条約としての性質及びソ連の国際条約違反の行動を理由に同協定の効力を問題とし、したがって南千島が日本に帰属することを支持している。

4、ポツダム宣言とソ連の行動との論理的検討
 日本は昭和20年7月26日のポツダム宣言を受諾して敗戦した、この宣言は米、英,支三国の日本に対する宣言であり、ソ連は参加していない。
 ところがこの宣言の直後8月9日にソ連の対日宣戦布告と共に日本攻撃が開始された。日本政府としては米、英,支に降伏するとともにソ連の蹂躙を止めさせなければならなかった。このためポツダム宣言に対する回答である昭和天皇の終戦の詔勅は米、英、シ、ソの四国に対して8月15日に発せられた。苦渋の行為であった。
 この頃のソ連の国際条約破りの8月9日の宣戦布告は決して容認されるものではないが、ただ8月9日から8月15日までのソ連の攻撃は米、英、支に協力と云う名分があったと云えるかも知れない、しかし8月15日に日本降伏後の北方領土への攻撃は、それも8月15日から2週間も過ぎての攻撃は何であったか、
侵略戦争に転じたと見る以外にない。(ブログ第15話)
 こう考えて来るとその後のロシヤ軍の択捉島、国後島での居座りは決して国際的にも容認される事ではない。

5、北方領土問題の今後
 以上の歴史の経緯をみて来ると事柄は次ぎのように要約される、
(1)南樺太(南サハリン)と北千島(クリル諸島北部8島)の日本の領有は
サンフラン条約で放棄した、しかし今後の日露平和条約で定められるまではその主権は未定である。
それにも関わらずロシヤが実効支配していることは見られる。
(2) 千島列島南部(北方四島)の主権は1853年の日露和親条約で協定した後何等変更は無く日本に主権がある。
その取得の経緯からして強奪でも侵略でもないから平和条約で返還する
理由は何もなかった。
(3) プーチン氏が前大統領時に択捉島、国後島の帰属は前の大戦の結果決着したとの言説をなしたが、この両島で戦闘がおこなわれた事も無く、サンフランシスコ平和条約でも日本がこの両島の主権を放棄した事実の無いことをプーチン、メドベージェフの両氏に納得させるべきである。
もし択捉島、国後島を実効支配していると云うならばそれは南樺太、北千島8島の現実とを混同しており誤った理解である。
(4) 日露で北方四島の日本主権が確認されれば進むべき階段
・不法に強制退去させられた14200人余の島民の帰還
・元島民の墓地の整備と墓参
・インフラの整備
・経済、民生活動の開発、整備
以上のことは日本の主権が確認されれば日露が協力して実行されるべきである。
その先駆としてムネオハウス、デイーゼル発電所の日本の先行努力がなされている。
ロシヤのミサイル基地の建設は他の地域で行うべきである。

6、 隣国ロシヤとの関係について
 地図上で北方領土、クリル諸島、サフアリンと見て行くと日本に非常に近い距離に在る、ロシヤが一番近い国なのである。
 歴史をひも解くと200年前にはむしろ接触が多かった、そして日露共有の樺太の時代とか、両国人自由往来の時代とかおおらかな人間生活が営まれたのである。
 ところが戦後67年間北方領土問題がしこりとなって関係が途絶えて今に至って居る。
 一方わが国の現状を見た場合かっての経済大国は格落ちし隣の中国、韓国からも圧迫される国となっている。
 そうするとこれからは一番近い隣国ロシヤ、それも極東ロシヤとの付き合いを深める方向が見えて来る。
 その意味で6月にメキシコでの日露首脳会談で「北方領土問題は再活性化をはかる」と意見が一致したということは正しい方向である。
それは択捉島、国後島のみでなくこれに続くクリル北部諸島、サフアリン全域を含めての開発、再活性化の方向へ進むことが考えられる。
 戦後67年間強面のロシヤを敬遠しすぎたのでは無かっただろうか、この地方の石油その他の鉱物資源、漁業資源は日本は既知である、火山、温泉もあり観光面でも見直されてよいと考える。過酷な気象条件は日本の技術力でしのげるのでなかろうか。
 ここで領土問題についてのロシヤ側の誤解を解いた上で国交を回復して、、過去の怨念から脱して極東地域の開発、日露融和への道を進むべきである。
(平成24年7月16日  第20話終わり )

参考文献
 世界大百科辞典    平凡社刊

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2012年6月27日 (水)

第十九話

原子爆弾、悪魔の兵器(その2)トルーマンの罪

 第18話で悪魔の兵器をアメリカのトルーマン大統領がどのような考えで、投下命令を下したかを検証した。
この論考の中で原爆使用の責任について追及し足りないことがあった、それは人類の殺戮の罪についてでありこの事を再び論考したい。

 前第18話でトルーマン氏はリーヒー提督のこの爆弾を決して兵器として使用するべきものでないと云う忠告に気がつかずに投下命令を出した事、 原子爆弾についての十分な知識を翌4月13日に科学調査開発事務局長バンネバル、ブッシュ氏から説明を受けたと述べているがそれは通り一編の知識でありその物の真の威力を理解するものでなかった事は明白であった。
 この日の約3カ月後に原爆完成の報を受けて、トルーマン大統領がスチムソン陸軍長官にこの爆弾使用の決定の命令を下すにあたり、この爆弾を主な軍需生産地の中央に出来るだけ近くに落とすべきであると云ったとの事であるが、それも見当違いの命令であった。
この爆弾の性質、威力から考えてそのような精緻な攻撃が出来るものでは無かった。
 そしてこの爆弾は現実に広島と長崎の上空で炸裂し其の後に現れた地獄図は多くの記録が残されているが、その中の二つの文章を紹介する。

 一つは井伏鱒二氏の大作「黒い雨」である、概略のみを記する。
 ・昭和20年8月6日午前8時過ぎに広島市中心部の上空に炸裂した異常な
  光線と熱波はその真下で朝礼中の国民学校の児童、中学校の生徒全員を襲い多くの即死者と生き残った子供も其の日の内に息絶えた。
 ・直下の陸軍病院は全建物倒壊、軍人も軍医予備員もすべて瀕死の重傷を受けた。
 ・市内中心部の一般家屋はすべて一瞬に倒壊し直後に異常な光線から出た火による大火災に巻き込まれた。
 ・広島城の天守閣は数十メートル移動して全壊した。
 ・この強烈な光線と熱波と大火災による多くの死者と負傷者、それは人の他に馬も家畜も路上に蹲り数日のうちに息絶えた。
 ・これらの被災者が市から数キロ~十数キロ離れた町、村に移送されて避難しその途中に死亡する人、避難した村の国民学校での薬品も無いなかでの介護状況  、介護した婦人会の人々の体について離れない異常な臭気までが記録されている。
 ・さらに恐怖はピカドンの翌日以後に付近の町村から被災者捜索に駆け付けた多くの人が瓦礫に含まれた異様な物質に依ってか、また多くの人はその後に降った黒い雨を浴びてその一週間後に発熱、下痢、頭毛の脱落と、後に原子爆弾症と呼ばれる症状を来たして死亡して行った事実である。
 ・広島市の付近を流れる何本もの川の岸辺にはその後何日の間も野辺送りの煙が絶えなかった。

まだまだ息をのむ事実が多く語られている長編であるが、それはこれらの事実を経験した数人の手記を小説の形に纏められたものであり、最後の戦争文学と云うにふさわしい。

二つ目は筆者の学友、正田欣之介氏が書き残してくれた文章で、広島の三日後
7月9日午前10時頃、長崎にプルトニュウム爆弾が投下された、その翌日に
陸軍の救助隊として派遣された時の記録である。
 ・私の中隊は8月10日早朝に非常呼集後ただちに列車に乗って長崎市へ救援に、4時間で浦上の手前で下車し,焦土と化した街を線路に沿って被災者の救援では無くてむしろ死体処理の作業が毎日で、8月15日まで続 きました。
 ・飛び散ったガラスの破片で顔中血だらけのお婆さん、唇が裂け、歯ぐきがむき出しの男子。髪の毛をチリチリに焼かれ,熟れたトマトのように全身膨れ上がり、体のあちこちにモンペの切れ端がワカメのようにぶら下がっている女の人は[熱いよう,熱いよう]と泣き叫びながら人々の間を走り廻って居ました。
 ・崖下には両目をカット見開き口や鼻から血泡を吹き、断末魔の苦しみに手足を痙攣させている老人。私の神経は麻痺してしまったのか、このような 恐ろしい怪我人を見ても何も感じませんでした。
 ・長崎医科大学付属病院へ死体収容作業の時に、登り坂の道路に多くの大人、小人、馬、牛、犬まで道路一杯に埋め尽くして苦しさに耐えてもがかれたあとが、痛ましく感じました。

この二つの文献は悪魔の兵器の実相を生々しく伝えている。それは地獄を現出したものであった。
 トルーマン大統領が[戦争法規に書いてある方法で、戦争の武器として間違いのないよう使用することを望んだ]と云っているがそれは全く見当違いの事を云っている。
 爆発物の権威であるリーヒー提督が原子爆弾は決して使用されるべきものではないと云ったのが正しかったのである。
 この広島と長崎の壊滅と42万2200人の犠牲者、ほとんどが非戦闘員
である男女、幼児から学童まで戦争に何の責任も関係も何の咎も無い無い人々が、地獄の辛酸を受けて亡くなって行った、この悲惨の責任はトルーマン氏が負う以外にない。
 彼が後に核兵器の国際管理を主導したとしてもその責任が軽くなるものではない。その罪はどんな事をしても償うことはできない。

この事件から67年を経過したとしてもこの地獄の責任は風化するものではない。
アメリカ国民はこの事を良く認識してもらいたい。
広島の原爆資料館を見学し、最後の戦争文学「黒い雨」を読んで死者への哀悼をささげて貰いたいのである。
(平成24年6月15日 第19話終わり  久保田 英三)

参考文献
1、 井伏鱒二著 「黒い雨」 新潮現代文学 2
2、 正田欣之介 戦争と平和(原爆被爆者の一人として)
      17淡水会文集[夕映え]より

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2012年5月12日 (土)

第十八話

原子爆弾--悪魔の兵器の運命、救世の具に変身できるか、

Ⅰ、戦争での原子爆弾の投下
 これは太平洋戦争の末期、昭和20年8月6日に広島へ、ついで8月9日に長崎に落とされた。それは従来の兵器としての爆弾の概念を覆す破壊力を持つ物、後に1トン爆弾の2万倍の威力を持つと云われたが、その被害はこの2都市に対して、たった1発ずつの爆弾で三十万人の即死者と十二万人が原爆症による悲惨な苦痛を何年にも亘って蒙むりそして死亡した。物的損害はこの2都市は瞬時に壊滅した。
 その後67年間世界のどこでもこのような事は起こらなかった。それは文字どうり空前絶後の事件であった。すなわち広島と長崎の不幸な事例がその後の世界の軍事拡大の中にあっても原爆の使用の抑止力として作用したと思われるが、この不幸な事柄を悔むとともにこの事が起きたいきさつを明らかにし、この悪魔の兵器がどのように変身できるのか考えて見よう。

2、トルーマン大統領の誕生
 フランクリン・D・ルーズベルト大統領が昭和20年4月12日に病死、
ただちに副大統領であったハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。
 大統領としての最初の閣議の後スチムソン陸軍長官だけが残り「いま進行中の一つの大きな計画について知って貰いたい」と云った。その計画と云うのは、ほとんど信じられないほどの破壊力を持った一つの新しい爆発物の開発であった。その話を聞いてトルーマン氏は驚いた。それは原子爆弾についてはじめてトルーマン氏の耳に入った情報の一片であった。陸軍長官はくわしくは語らなかった。翌日になって、トルーマン氏は十分な知識を与えられた。それによると、ほとんど信じられない開発が進行中で、恐るべき力がやがて米国の手中に入るはずであった。
 こうしてそれまでルーズベルト大統領のみが関与した原子爆弾の問題がトルーマン氏に与えられた。したがって本稿では多くをトルーマン回顧録の記述に依ることにした。(原文のまま引用するものは( )書きとした。)

3、悪魔の兵器である事の認識
 その翌日の原爆についての科学者の説明は(科学調査開発事務局長バンネバル・ブッシユがホワイトハウスに来て行われた。ブッシュがこの驚くべき事実を私に語った時そばに大統領付参謀長ウイリアム・D・リーヒー海軍大将がいた。「それはわれわれがいままでやって来たうちで、もっとも馬鹿々々しいものですよ。爆弾はけっして投下されませんよ。しかも私は爆発物の権威としてこれを語っているのですよ」とリーヒーは述べた。)
 この話は科学者としてはこの爆発物の研究が想像を超えた殺傷力を持つものであり、人類殺戮の道具であって戦争に使用してはならないものだと云う意味を込めたものであったと思われる。
 トルーマン氏はこの時この事を言葉として理解はしたが、その真の意味までは理解が及ばなかったようである。

4、原子爆弾の完成
 この知らせは昭和20年7月16日の朝ポツダム会談に来ていたトルーマン大統領にスチムソン陸軍長官から報告された。そして翌日、ニューメキシコ州アラモゴードでの爆発テストの結果の報告がされた。
 (原爆が完成しだいこれを敵に使用せよというのが、製造に携わった科学陣の勧告であった。彼らは更にこの原爆は無警告の下に一つの目標に向けられ、明白にその破壊威力を示すよう使用すべきであると勧告した。)
 「この時原爆が秘める悪魔性は科学という衣を着て一人歩きをすることと成った。人間の尊厳、という問題はどこかに追いやられリーヒー提督の勧告は一顧だにされることは無く事は進んでいくことになる。」
 (この爆弾の使用を決定するにあたり、私は戦争法規に書いてある方法で、戦争の武器として間違いのないよう使用することを望んだ。この爆弾が軍事目標に落とされることを望んだのである。私はスチムソンに、その爆弾はおもな軍需生産地の中央に出来るだけ近く落とすべきであると云った。
 スチムソンの幕僚が日本の中で目標として適当な都市のリストを準備していた.、京都は軍事活動の中心として良い目標だとしたが、スチムソン長官が。日本人の文化と宗教の中心地であるからといってこれをリストから除外した。結局四つの都市が最初の原爆目標として選定された。広島、小倉、新潟、と長崎であった。
 この選択の順序は、これら都市の軍事上の重要性に準拠して定められた。しかし落とす時の天候の都合で、後先のやりくりは許されていた。
 第一爆弾は天候の許す限り8月3日以降なるべく早く投下するよう訓令を下すよう命じた。
 7月28日の東京放送局は、日本政府が戦争を継続する決意であることを放送した。米英中の共同最後通告に対する日本の正式の回答は無かった。.爆弾は、日本がその投下の前日までに降伏しない限り、8月3日以降投下される予定で進んでいた。)
 「この原爆投下のいきさつを見ると明らかにトルーマン大統領は通常の爆弾、その以前に行ったB29爆撃機による日本都市の攻撃のイメージで原爆攻撃を命じたと云っている、しかしそのような精緻な攻撃ができるものでは無かった。軍事目標だけに攻撃が出来る爆弾ではなかった。無辜の人民を巻き添えにすることは判り切った道具であった。
 その開発に科学、工業、労働、軍事の10万名以上の労力と莫大な資材、2年半の歳月と25億ドルの費用を要したからには、ただただこの成果を戦争に資するべきだとの考えしか働かなかった。即物的な思考からはこの道具を戦争に使用することしか出て来なかったのである。」

5、戦後の原子力兵器の国際管理の提唱
 太平洋戦争が終了して1カ月半たって、昭和20年10月3日にトルーマン大統領は原子力の機能と恐怖に気付き、国内と国際の2面での検討に着手する。
 国内的には原子力に関する事柄を国の委員会の権限下に置くこと。
 国際的には原子力の管理を国際的な処置とする事、英国とカナダはすでに以前から原爆の共同開発に携わっているが、それを広げて国際管理という考えに帰着した。
 これがトルーマン氏が行きついた原爆の悪魔性、いみじくも6カ月前の4月13日にリーヒー提督が云った原爆の人類に与える危害についての責任に思い至ったのであろう。この事の責任を投下の命令者一人、或いはアメリカだけが負うことから逃れる道は国際管理しかないと云う結論であったと思われる。
 すでに使用された広島、長崎での人道上の責任からトルーマン氏は逃れることは出来ないが、今後起こるかもしれない戦争での原爆使用が国際的機構の管理下でされるなら米国は非難から免れるという理屈である。
 昭和20年11月15日に米英カナダの三首脳がワシントンで宣言を発した。
その趣旨は
Ⅰ、原子力を破壊目的に使用することを阻止する
2、平和と人道上の目的のため科学知識特に原子力の使用に関する進歩をはかる。そのために早い時期に国連機構の下に委員会を設立し次ぎのようなことを提案する。
1、 すべての国の間に平和利用のための科学情報を交換するようにする。
2、 原子力を平和目的だけに使用するために必要な管理方式を勧告する。
3、 大量破壊のため原子兵器をもって国家の武装をするとか、その他のすべての主要兵器に採用することを除外するよう勧告する。
4、 視察その他の方法により原子力の規定に対して違反とか回避をするものに対して有効な警戒措置をとる。

6、国際管理のその後の歩み
 昭和21年1月14日ロンドンで第1回国連総会が開かれ、国連原子力委員会が発足した。しかし核兵器軍縮という崇高な目的を掲げ、加盟国はそれに向かって進むはずであったが、そうは成らなかった。むしろ原子力開発について逆行して行ったのである。本ブログ第8話に五大国の核兵器開発の経過表を掲げておいたが。ソ連は昭和24年に原爆実験に成功したが、その35年後の昭和59年には37431発を保有するまでになった。(同期間のアメリカは235発から23051発であった。また常任理事である他の三国もⅠ発から965発の原爆開発であった。)
 この国連の崇高な目的に反する大国の行動は、そもそも第二次大戦中に日独伊を追い詰めるためその時の方便としてソ連と同盟し、大戦終了後も主義、主張、利害も異なるソ連をそのまま常任理事国に据えざるを得なかった国連と云う組織の宿命的な成り行きであったと恩われる。
 この不明朗な情勢に変化が起きるのは昭和43年(1968年)の核兵器の不拡散に関する条約(NPT)を加盟国が採択してからである。
 核兵器を封じ込める国際的な努力のうち米ソ2大国が核戦争の脅威を大きく緩和させる協定を結んでいく。
1972年対弾道ミサイルシステムの制限に関する条約
1987年中距離および順中距離ミサイルの廃棄に関する米ソ間条約
 射程距離500~5500キロまでの地上發射台を使用する弾道ミサイル及び巡航ミサイルを含め、すべてのクラスのミサイルを廃棄するとした。
1991年戦略攻撃兵器の削減及び制限に関する米ソ間条約(STARTⅠ)
 それぞれの側で長距離核運搬手段を1600、弾頭数を6000に削減
1993年戦略攻撃兵器の一層の削減および制限に関する米ソ間条約(SUTARTⅡ)
2002年戦略攻撃能力削減に関する条約(SORT)米ロ二国の大統領による
 モスクワ条約
 配備される戦略核弾頭を1700発から2200発までの間の数に削減する。

 このような米ソ二大国が核兵器の削減に踏み切ったのは、その開発、保管の費用が国の財政を圧迫しだし、これは二国同様で利害が一致したからで、決して核廃絶の理念に根差した削減では無かった。
 なお2200発の上限は他の国が束になってくると1000発を超えることになるからという落ちが着いている。

 これが国連による核廃絶の実相である。我々日本人が、また世界の人々も同じであろうと思う核兵器の無い世界を追い求めるには程遠かったと云わなければならない。

7、原子力の平和利用
 以上が原子力の国際管理の現状である。STARTⅡは2012年が期限であるが加盟国に異議がなければ存続される。したがって多分現在世界に5000発の核兵器が保有されているだろう。それは先覚者が云った決して使用されない馬鹿々々しいものではあるが、しかし計算上の被害は20万人x5000発イコール10億人が虐殺されるものである。
 これが米ソ英仏中の五大国と国連の認可外のイスラエル、インド、北朝鮮が保有する総数であり、国連を介した核管理の実態がこれだと考えると何とも云いようがない。

 そうすると考えを転じて原子力の平和利用を検討するべきだと云うことになる、悪魔に衣を脱いでもらう話しである。
 原子力発電が数十年前に開発されて平和利用として大きく人類に貢献した。ところが日本では各発電所が海岸寄りに立地したため平成23年の東日本大地震の津波被害で存続の岐路に立ったことは残念なことであった。
 二番手に考えられるのはその破壊力をダイナマイトの代わりに、さらに大きなものとしての利用である。これは昭和28年(1952年)11月1日のアメリカの水素爆弾の実験成功が一つのヒントとなったのであろう、この実験で一つの島が完全に吹き飛ばされ,サンゴ礁の中に大きな噴火口が一つ残った状態となったのである、アメリカではその後第二パナマ運河を原子の爆発力を利用して掘削することが研究されている。
 ただこの土地の掘削に原子力を利用する場合吾々素人でも心配なのは死の灰
、原子の塵の拡散の防止である。日本国民は第五福龍丸がアメリカの原爆実験の島の近くを航行中死の灰をあびて乗組員が死亡した事故を覚えている。
 この問題をクリヤー出来れば原子力の平和利用は大きく前進するだろう。
 折しも東北地方、津波の大被害地の土地のかさ上げは緊急の課題である。これが山を崩して海岸に移し、海抜40メートル程度の宅地を造成することが出来ればと思うのは理想論だろうか。それができれば国連を介して保有各国から核弾頭と操作技術者の派遣をしてもらうと云うことで核軍縮にも役立つのではなかろうか。(国連の予算は二年間で48億ドル、日本はこの16・524%を負担している、これは米国の22%につぐ多額を負担している事を思うと、上に挙げた問題が技術的に可能であれば充分申し出て良いし、実現可能なことだと思うのである。)

 国連を介した原子力の国際管理の実情を見ると非常に空しい思いがするのであるが、1面を考えると戦後67年間、世界中で数万發の原子兵器が製造されても、日本以外には1回も投下されなかった(昭和25年11月朝鮮戦争のなかで中共軍の介入に対して原子爆弾の使用をトルーマン大統領が考えたが、これを新聞記者から聞いたアトリー英首相がニューヨークへ飛んできてトルーマン氏を諫めて新聞発表を取り下げた一幕があったが)
 この事は広島、長崎のすさまじい被害が抑止力になったと思われるが、決して使われる事の無い爆弾なら5000発あろうが0であろうが同じ事と云う
理屈もあるのではないか。

 核軍縮は今後も尾を引くであろうが、吾々日本人としては核の平和利用に意を用いたいものである。
(平成24年5月1日 第18話終わり  久保田 英三)

参考文献
1、トルーマン回顧録  堀江芳孝訳 (株)恒文社
2、国際連合の基礎知識  国際連合広報局  関西学院大学出版会

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2012年4月11日 (水)

第十七話

「日米戦争はなぜ始まったか・・ルーズベルトの責任」を読んで

私のブログ第2話で春秋の筆法をもって云うなら太平洋戦争の開戦はルーズベルトに依って仕組まれたとも云えると書いたが、この考えが完全に裏書きされたのがこの書物である。
アメリカ人の歴史学者チャールズ・A・ビーアド氏の著作の日本語訳、上下
780ページにわたる大著である。

標題が示すようにアメリカ人が秘匿しておきたい問題を露呈する本書は米国民の間で激しい反発を招いたと云われている。
それ程にアメリカ人にとっては触れられたくない事柄を明らかにした文書であるが、私たち日本人にとっては私のブログ第1話に示したように昭和15年に始まった対日資産凍結令から始まりガソリンの輸出制限等数々の経済制裁、それらは日本国の首を締めあげるのに絶大な効果があったのであるが、それはその9年前に日本の満州への進出に不快感を持ったアメリカ政権で当時の国務長官スチムソン氏が日本に対して経済制裁をするべしと唱えた処フーバー大統領がそれは戦争に直結するとして差し止めたことであったと記述されている。

 そう云う禁じ手をルーズベルト政権はためらいも無く実行して行く。
他方で昭和16年3月に武器貸与法案を成立させる。それはドイツと交戦中の英国を支援するためのもので実質はアメリカが欧州の戦争に突入することになるものであるが、これをあくまで平和のため、アメリカの防衛を続けていく上での予備的な措置であると説明、決して戦争に突入するのではないと国民の前を繕った。
このあたりアメリカ国民の民意に反しての戦争への突入を大統領が如何に切り抜けて行ったかを詳細に記述している。

 一方昭和16年2月に駐米大使として野村吉三郎氏が着任、8月に近衛首相のルーズベルト大統領との太平洋会談の提案が伝達されたが、これは不成立となる。
 昭和16年11月26日にコーデル、ハル国務長官より覚書(ハルノート)をわたされる、これは日本の中国、インドシナからの全面撤退、南京政権を認めず中国国民政権のみを認めることを要求したものであった。

この日本側が受け入れる可能性の全くないハルノートを突き付けたことで日本の意思を開戦に導き、最初の一撃を日本に出させる事に依り米国民の意識を盛り上げ戦争への突入を一気に米国民の世論とすると云う画策が詳しく記述されている。
 ただこのーズベルト大統領の画策に誤算があった、一撃の強さを見積もれなかった事である。後に真珠湾事件としてアメリカ国内で問題となった昭和16年12月7日未明の日本空海軍の攻撃による損害は戦艦16隻と人員3000名に及ぶ超大被害であったがために、この敗戦の責任が当時責任有りとして大統領からその職を解かれたハワイ方面軍司令官シヨート陸軍中将とキンメル海軍大将の2名だけの処遇で当を得ていたのか、もっと上部に責任があるのではないかと云う批判が高まり更に2つの査問委員会が持たれて事件から5年後の昭和21年になって最高司令官ルーズベルト大統領に太平洋大戦の開戦の責任有りと(同氏は昭和20年春に病気で死去していたが)結論を出したことが詳しくのべられている。

 こう見て来るとフランクリン・D・ルーズベルト氏が1940年の大統領選挙に際して公約された民主党政綱にもルーズベルト氏の個人的声明にも「アメリカは国民を外国との戦争に派遣することは無い」と明らかにされており、両者はその後も「アメリカの平和と不戦の誓い」を繰り返しこれをその後1回も撤回していない。
 すなわちルーズベルト政権は一貫して参戦を否定し平和を求めると云う外観を維持した。
 これに対して昭和21年の査問委員会の結論はそのような外観を米国民に示しながら政権内部では着々と参戦の道をたどった事、むしろ参戦を主導した事についての責任がルーズベルト大統領にある、それは米国憲法に触れる問題でもあると国民に示したのであった。

 さて日本国民にとっては、太平洋戦争の開戦責任が米国内の誰が負うべきかと云う責任問題はさほど関心はない。
 通常戦争は破局にいたるまでの一時期に収束があってしかるべきでなのである、そのギリギリの線での日本側の提案が昭和16年8月の近衛文麿首相がアメリカ政府と[平和的関係を維持することを真摯に願い、この問題を大統領と平和的精神に基ずいて徹底的に話し合うため太平洋のどこかで会談する]ことを望んだ内容であったがアメリカ政府より一蹴されて実現しなかった。

 両国の話し合いで戦争を回避する望みは消えて米英が日独伊を壊滅させる構図が出来て行った。
 この態勢が敷かれる裏には昭和16年8月のルーズベルト氏とチャーチル英首相の大西洋会談が大きな伏線になっている、ビーアド氏は公表されなかった部分の多いこの会談にも筆を進めている。

 筆者の見るところ、この大西洋会談で二国は世界の警察官として治安維持に当たると合意したとあるが、この事と密接に関連することを本ブログ第3話でのべた、これが昭和18年からのカイロ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談の伏線になった事は間違いはない。
 この3つの会談で米英二国の警察官構想でソ連を大戦末期に日本攻略に引き入れに進み、結局米英ソ三国の世界制覇につながって行った。
 それは日本については昭和20年の終戦と同時に樺太、千島、朝鮮、台湾
澎湖諸島,南洋委任統治区の島々を取り上げ、日本を明治維新の時の領土にまで圧縮する事になったのである。

 このように考えて来るとルーズベルト大統領の参戦思想は日本の昭和20年の壊滅に至る道筋に直接関係のある事であり、戦後の世界地図を大きく塗り替えの転換点になったと云う意味でビーアド氏の書物は我々を啓蒙してくれた。
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 以上のピーアド氏の解説を読んでつくずく考えるのは国体の相違である。
日本とは異なり人種の坩堝(るつぼ)と呼ばれるアメリカ、その国民は僅かな原住民のほかに英国を主にした欧州系白人種、ユダヤ系、アフリカ等の黒人系、中国日本の黄色人種などとそれらの一世から三世の混然とした国体、その民意を纏めることは容易な事ではない。

 それをルーズベルト氏とコーデル・ハル氏は日本に先制攻撃を打たせて一気に国民の戦意を盛り上げる事を考え、これが図に当たったのである。
 真珠湾事件を引き金とした米国民の国論は沸騰し、国力の発揮はすさまじかった。16隻の失った戦艦にかわって多数の航空母艦と戦闘機群の増産、B29爆撃機の大群をもっての日本への攻撃、これらが南西太平洋の数多くの日本拠点の奪回、硫黄島・沖縄への猛攻、そして戦艦大和の撃沈へと進む、(この時の
海没戦死の乗組員は3000名余と奇しくも真珠湾の戦死者と同数であった)。

 一方日本の国体を考えれば、それは当時立憲君主制であった。(これは女王をいただく英国と似ているが米国の立憲民主制とは明らかに異なる)
戦争の開始は米国では議会の承認が必要である。これに対して日本では聖戦の詔勅ではじめられた、また終了も終戦の詔書で数百万の軍は一斉に兵を収めた。
 なおこの終戦は上記の壊滅的な軍と国内の被害に加えて原子爆弾の投下を受けて、これが最期と天皇陛下が考えられてポツダム宣言を受諾するかたちでの降伏であった。決してソ連の侵入は原因では無かった。

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この戦争をもっと早く講和に持って行くことが出来なかっただろうか、せめてシンガポール占領時あたりでやめることが出来なかったかの声もあった。
 しかしこの書物を読む限りルーズベルト氏とコーデル・ハル氏が米国大統領と国務長官に居ればそれは全く可能性が無かった事がわかる。

 いずれにしても日本は終戦の結果一から出直して67年を経過した。その間に平和憲法を持った。ただしこの憲法は若干の改正をして世界平和に貢献する小さくても強力な国になるよう、そして他国に領土を侵されない事が私の念願である。
(平成24年3月24日 第17話終わり 

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2012年3月19日 (月)

第十六話

プーチン大統領の北方領土問題についての誤った認識を糾す

プーチン氏はつい先日の大統領選挙の演説で北方領土の問題の解決を唱えたと云う、その意味は国後、択捉島をロシヤが取り込んで解決すると云う事であろうと推察される。そういう公約を国民に与えて選挙に勝ったと云う事は非常に問題であると考える。

 プーチン氏は前の大統領時に国後、択捉島の結着はついているから返さない、それは前の大戦の結果であると云った。
ここに彼の大きな考え間違いがある。いかにも先の大戦でソ連が勝ったように思っているらしいが、この事から検証してみよう。

 話は昭和20年8月9日のソ連の宣戦布告にさかのぼる、これは謂われなき宣戦であったが、そのこと以上に日ソ中立条約破りの宣戦であった。8か月の期限をのこした国際条約を何の理由もなく破って宣戦すると云う事。
当時の日本政府にとっては寝耳に水であった、友好国と信じ講和の仲介まで依頼しようとしていたソ連からの宣戦、それはあり得ないことが起きたのであった。当時の外務大臣東郷茂徳氏は「この宣戦布告は不可解の事であり、東洋における将来の事態よりも甚だ遺憾なりといわざるをえず、みぎは軅(やがて)世界の歴史が裁判すべく」と書き送った。スターリンの非道、無道の行為であった。

8月9日未明から160万人のソ連兵は満州、樺太の国境を越えて侵軍してきた。
 ところで北方領土への侵入はどうであったか、択捉島には8月29日に国後島と色丹島には9月1日に侵入してきた。これは8月15日に昭和天皇の終戦の詔勅で降伏の宣言を米英支ソの四国に發せられた日より2週間以上も経た時点の事であった。
これは戦争というものでは無かった、ただ侵入してきて無抵抗の日本軍の武装
解除をしさらに非道にも日本住民1万4291名を北海道に強制移住させた。
そしてその後67年以上現在までもロシヤ軍の駐留を続けている。

 この67年前からのソ連、ロシヤ軍の行動をプーチン氏があたかも戦争に勝ったから国後、択捉島を獲得したように云うのは、とんでもなく大変な認識不足である。
 今後プーチン氏と北方領土問題を話し合うには、まず始めに以上の国後、択捉島へのソ連兵侵入の歴史認識、そしてプーチン氏の既成観念の撤回から始めなければならない。
 この歴史のありのままの姿をプーチン氏が認めない限り北方領土問題はいくら話し合っても無駄である。日ソ平和条約は先送りせざるを得ない。

(平成24年3月12日ブログ第16話終わり)

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