« 2015年5月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年9月

2015年9月 2日 (水)

戦後を振り返って 第20話  シュミレーシヨン [本土決戦]

 70年前の太平洋戦争末期に 本土決戦、一億総特攻という言葉が飛び交いました。
それらは当時のせっぱ詰まった戦況から生まれた言葉でした。
緒戦の真珠湾攻撃、シンガポール攻略の輝かしい戦果から半年後には日本軍は敗退に転じます、ミッドウエイ海戦、フイリッピン沖海戦での海軍の壊滅、アツツ島,硫黄島の全滅、そして沖縄の壊滅、さらに戦艦大和の沈没等、これらの敗戦は日本軍の大きな悔恨でありました。

中でも沖縄戦では18万人の将兵と12万人の県民の死を賭した戦いに何の支援も出来なかった日本軍、この戦いは日本本土の決戦を少しでも遅らせる作戦と、軍民一体となって地下壕に潜み、火炎放射機、新型戦車に肉弾で対抗した3カ月の死闘でした。
この壊滅は内地にいる軍の指導者の頭に重くのしかかって居たと思われるのです。それまでの多くの戦いで散げした英霊にたいする慰霊の念も含めてアメリカに一撃報いたいと云う意思も籠った言葉が本土決戦であったと思われます。

 昭和20年7月28日にポツダム宣言が発表されました。そして原爆が8月6日に広島へ、8月9日に長崎に投下されました。政府内ではポツダム宣言を受諾して降伏するか否かで意見がまとまらず,阿南陸相は本土決戦を主張して対立が続き遂に8月10日に昭和天皇の聖断を仰いだのです、陛下ははっきりとポツダム宣言受諾を表明されました。
この時に阿南陸相に代表される徹底抗戦の意思を良く考えて見ると、当時の現状認識の粗誤が浮かび上がって来るのです。

本土決戦の考えには太平洋沿岸に上陸してくる米軍に沿岸に配置した部隊で肉弾攻撃を加える特攻作戦しか無かった、私達予科練生4000人が高知県の太平洋岸に陸戦隊として配置されたのもその一環で、他の地区の予科練生と併せると10万名になったのです。
また日本沿岸各地に板張り船体に250キロ爆弾を装着した震洋特攻隊が75か所1万名がありました。

即ちこの本土決戦作戦はアメリカ軍が戦車、火炎放射機を持って上陸してくると想定した在来型の作戦であったのです。
しかしアメリカ軍が沖縄で行ったような上陸作戦を再び日本国土に対して繰り返すでしようか。

それはその直前に原爆6発を完成したからにはそれを活用する筈と思うのです。
8月6日と9日の広島と長崎への2発の原爆投下がその実験であったのです。両市の上空数百メートルで炸裂した原爆は強烈な火力と破壊力で地上の全てを焼き尽くし、破壊しました、広島市で269,446人、長崎市で152,276人が殺傷されたのです。
若し日本がそれでも降伏しなければ、アメリカは既に完成していた残り4発の原爆を次々と投下するでしよう。それはパステル作戦、オリンピック作戦として計画していた日本への上陸作戦に原爆を加えた攻撃になる筈であったのです。
上陸作戦に先だって遠い太平洋上の基地から航空機で原爆を一発ずつ運び、投下して、日本陣地を壊滅してから上陸する筈であったと考えられます、日本軍が待ち構えている処には原爆の洗礼が行われるでしよう。
恐ろしいシュミレーシヨンになりました、われわれ予科練が数カ月苦労して築いた地下壕も一瞬にして押し潰される事になったでしよう。
アメリカの科学力は日本人が考える戦争の手段を飛び越した物になって居たのです、徹底抗戦を唱える軍人の頭では考えられない壊滅的な敗北しか生まれなかったでしよう。

昭和天皇はこの様な結果を体感されていたのではないでしようか、終戦の詔書に「敵は新たに残虐な爆弾を使用して」と云われこの原子爆弾の非を指摘されました。
昭和天皇の御聖断によって原爆投下は2発で終わりました。こう云うと広島、長崎の御霊421,722柱に申し訳ない事なのですが3発目、4発目とならないで本当に良かったのです。

当時本土決戦、一億総特攻など呪文のように軍の指導者は言いました、しかし国民の多くはそこまでは考えなかった筈です。
そこまで国民を巻き込むのであれば何の為の軍隊なのかと云う事になります。
国民の意識を無視した軍部の独断を排する気持ちですが、杞憂に終わりました。

だから戦争は駄目なのです、軍人も、政府の要人も、ジャーナリストも、多くの人の気持ちを錯乱させるのが戦争なのです。
                      

  (2015,9,1終わり久保田英三)

にほんブログ村 歴史ブログ 現代史 戦後(日本史)へ

にほんブログ村>

 
 
 

« 2015年5月 | トップページ | 2016年1月 »