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2015年2月11日 (水)

戦後68年を振り返って 第17話

戦後68年を振り返って 第17話

北方領土問題の核心

 平成27年1月20日に岸田外相がベルギーで行った演説でウクライナで起こって居ることも北方領土の問題も「ロシヤとソ連の力による現状変更だ」と述べた事をロシヤ外務省が批判した事について、1月22日に菅官房長官が更に「北方領土問題が日本がポツダム宣言を受諾を表明した後にソ連に占領されたのは歴史上の事実だ、岸田外相はこうした歴史的な事実をふまえた認識を述べたもので[歴史の歪曲]と云う判断を受け入れることはできない」と反論した。

 この日本の政権の主要閣僚2名の発言は短いながらも北方領土についての日本の立場を明快に示した発言であって、全く正しい。 これが北方領土問題の核心なのである。  ソ連、ロシヤと日本の領土交渉が始まって60年間この日本の主張の核心がロシヤ側に理解されていない、それはロシヤ側の上記の外務省の発言に現れているが、その根源にスターリン史観なる誤った思想があるように思われるのである。

 上記の日本政府の2閣僚の核心をついた発言だけでは全体を掴むのが困難なので、以下にその基になる事実関係を改めて検証してみよう。

1、 日露領土交渉の行き詰まり 北方領土交渉が行き詰まっているのは、日本側の主張が国後、択捉島の主権が日本に在り、これが1945年いらいソ連、ロシヤに侵害されている、その日本主権の確認を求め返還を求める、と云うに対し、 ロシヤ側は太平洋戦争を、多くの世界人民を戦禍から守る米英の聖戦であるとして、それへのソ連の参加の結果北方四島へ侵攻し、以後それらを占拠して今日にいたっていると主張して譲らない。

 実状を見て見よう、 北方領土へのソ連軍の侵攻は1945年8月29日に択捉島に9月1日に国後、色丹島に上陸して、武装解除した。 この侵入は菅官房長官の言のとおり、8月15日の日本のポツダム宣言受諾、したがって日本の降伏の14日以後のこと、すなわち全く戦後のことなのである。  この日本の降伏は8月15日に中立国の外電で米英支蘇の4国に通知されたからロシヤ政府も即日承知していたはずであった。 (スターリンソ連首相が日本降伏を即日に知って居たことは、次の事実で証明できる。 それはその翌日の8月16日にアメリカのトルーマン大統領宛てに戦後の日本占領地として北海道の北半分を要求した、しかし8月17日ずけのトルーマン大統領の返書は北海道の半分の占領は拒否する、そしてアメリカは中千島の一島に米軍の飛行場を設ける権利を要求した。 スターリンは8月22日に、不満であるが北海道の北半分の占領は断念するが、中千島の飛行場の設営は断ると返事したという事実がある。 この事からスターリン首相は日本の降伏を即日知って居たと云えるのである。  

以下は想像であるがスターリン首相は北海道占領の挫折をうずめる次の手として北方領土への侵攻を指令したのではないか、それが8月29日と9月1日の北方領土侵入となったと思われる。  戦後2週間を経た時点と云えば、筆者が予科練、陸戦隊として四国太平洋岸に配置された当時を思い出しても、8月15日敗戦の日の屈辱感、挫折感、価値観の喪失から立ち直って復員、帰郷の思いのみの時期であった。  

この時に北方領土へのソ連軍の侵入、そして武器の押収であった。 この時の現地の兵士たちの心情をおもえば涙するしかない。 これはスターリン史観に云う聖戦の継続、その結果の占領とは全く言いうる事ではなく、 太平洋戦争が終了して2週間後の別個の領土侵略の戦争を始めたと断じざるを得ない。

 更に非行は続く、北方領土、満州、樺太、朝鮮の日本兵士を拘束して64万人(満蒙開拓団の人々は別に27万人)がシベリヤ、沿海州、ウラル山脈の西までに送られ,苛酷な労働に服することになった。 この事はポツダム宣言の第9項に明示された、捕虜の待遇に違反するのみでなく、人道上大きな問題であり、今後詰めるべき日ろ平和条約交渉において対処すべき問題である。 また日本軍が居なくなった兵舎は無断でソ連兵が住み着き、70年間使用し続けている、これも黙って居るべき事ではない。

 さらに看過できない非行は北方4島在住の島民17,291名はそのままに居ればロシヤ国民にされるので強制的に北海道に移住させられ対岸の根室等に居住を余儀なくされた。以後70年今は孫の代になっているがこの人々の望郷の念は消えない。

 この人道上の罪も糾弾されるべきなのである。

2、 スターリン史観の検証  ロシヤ側は未だにソ連の北方4島への進攻はヤルタ協約で認められた聖戦の遂行と云う、 これは今まで見て来たように歴史を歪曲したスターリンの説なのである。  まずヤルタ会談なるものが1945年2月4日から11日に米英首脳とスターリンが会談して戦後の戦後の国際秩序について話し合われたことは知られていたがその他は何等知られて居なかった。

この事は1991年9月の日露平和条約交渉に於いて外相級の会談で次のように日本の見解を明らかに示している。

 「ヤルタ協定は戦後の国境を決めた国際法上の協定ではないし、当時日本はその存在すら知らなかった、知らなかったものに日本が拘束されることはあり得ない。 そもそも此処に云うソ連への千島列島の引き渡しは戦後の領土不拡大をうたった太平洋宣言とカイロ宣言に明白に違反している。

 ここで言う対日戦争への参加という事自体が当時有効に機能していた日ソ中立条約違反ではないか。  ヤルタ協約が何等何等根拠となり得ない以上、日本としては戦後の国際条約の中で領土問題に法的に根拠となるものは1951年のサンフランシスコ平和条約となる、 ここでは確かに日本は千島列島の放棄を規定しているが、この平和条約は放棄した千島の帰属先を決めていないし、千島の範囲も定義していない。

 この講和条約で吉田全権は「千島南部の国後、択捉の両島が日本領であることは、 帝政ロシヤも何等異議を挿まなかったのであります」と明言している。

 即ちサンフランシスコ平和条約では日本は国後、択捉の両島を放棄していないと 明言した」 (なお「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料」の(6)ニコライ一世のプチャーチン提督宛の訓令(1831)と(7)日露通好条約第2条(1855)に択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシヤ領と明記している。 

 このようにスターリン史観は徹底的に論破できるのである。

3、 スターリン史観の現在 この日ソ中立条約破りである北方領土の侵攻についてのスターリン史観なるものは 1946年5月の極東軍事裁判に際し、ソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露して世に知られるようになり、この歴史の改ざんをスターリンは国内のあらゆる文書その他の媒体を通じて国民に植え付けたとの事であった。

 独裁者の非行を可とする為に歴史を改ざんしこれを国民に信じさせる方策を国を挙げて行うとは恐ろしい国があったものである。

 スターリンはその後フルシチョフ大統領時に否定された、しかしそれ国内政治における悪行が否定されたのであって、日本との外交であるこの北方領土問題についての悪行は残って居たと思われる。

4、 ゲンナジー、ブルブリス氏の至言 この人はスターリン史観に汚染していない人物であった。この人がエリツイン大統領の国務長官であったときスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本への返還をするならば北方領土の問題の解決とロシヤの国益に矛盾は生じない、 即ちロシヤは樺太南部と千島の中部、北部のロシヤへの帰属の日本の承認を得られると云う利益を得るという説を述べたとの事である。  またスターリンの暴挙と云う点で、北方領土の問題と日本兵のソベリヤ抑留は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言して1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとのことである。

 この謝罪は今後の平和条約交渉において正式に文書で表わされるべきと考える。

5、 日ソ中立条約破りの犯罪性について この問題は平和条約の交渉とは別枠で討議するべき事と考える。 スターリン首相は日ソ中立条約の期限の8カ月前にこれを破って日本へ宣戦を布告して参戦した。この国際条約を破る犯罪性について検証してみよう。  

当時の事を振り返ると1945年5月8日にドイツ降伏の報を受けて日本政府は米英及び中国にたいして講和を申し出る事を決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいる友好国ソ連しかないと政府首脳は決議した。  

この和平交渉の仲介の依頼を伝える使者として起用した元首相広田弘毅氏のソ連マリク大使との折衝ははぐらかされて、何の回答も得られない。そこで政府は昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた、ところが佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。

この2カ月と10日の空費は大きかった。  ソ連側がなぜ態度を明らかにせず日を遷延させたか、あとで思えば中立条約破りの画策がそれにブレーキを掛けたとしか考えられない。  そして7月26日にポツダム宣言が発せられた。日本は7月18日から8日間では 次の仲介国を依頼する事ができなかった。

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 一方アメリカでは原子爆弾の開発が最終段階に来ていた。1945年7月16日にポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられた、大統領はこの原爆を8月3日以後なるべく早く天候を見て既に選定してある日本都市に投下するよう訓令を発した。  現実に8月6日に広島に8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、この2都市の住民、 老いも若きも、朝礼中の小学生までも422,200人が即死または原爆症で苦しみそして命を断ったのである。

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 こう見て来ると、もし7月26日のポツダム宣言の発表までに日本が和平交渉を申し出て居れば原爆の投下は見送られて居たであろう。ところがソ連の中立条約破りの 姦計の結果、日本の外交が時期を逸して原爆の投下となってしまった。  即ち原爆がもたらす惨禍についての責任の一半はソ連が負うべきと云う事になるのである。

6、問題解決の順序  以上いくつかの日ロ間にわだかまる問題をどの順に解決していくかを考えてみよう。

(1)上記5に述べた国際条約破りについては、それが行われた直後に東郷外相が「やがて世界の裁判がなされるべき事」と言明された、それが70年間行われていない、 それはその後に始まった日ロの領土交渉、平和条約交渉で、いずれロシヤ側が其の非に気ずくと期待したからであろう。ところがそれに気ずいたのはブルブリス氏のみで、いまだに交渉担当外務官僚が主張を変えないとすれば,取るべき手段は何か。世界各国の理解を得る事、具体的には国連への提訴である。
それには日本と殆んど同じ問題で先例の有る事を思い出して貰いたい。それは蔣政権とソビエトの中ソ友好同盟条約の締結とそれの破棄の経過である。 (中ソ友好同盟条約・・・この前段に米ソのヤルタ密約があるが、そこで蔣政権には断りなしに中国主権が侵されていることが盛られていた。
旅順港、大連のロシヤの優先使用、中東鉄路と南満鉄路の共同使用、外蒙古の独立等、蔣政権ではこれらを不満として宋子文外交部長と蔣経国をスターリンの許へ派遣して協議させた。この結果1945年8月14日にこの条約は調印された。

 ところがこの条約締結の直後スターリンは背信行為に出た、8月9日よりのソ連の日本側満州への攻撃が僅か2週間で東北3省の殆んど全域をソ連は手中に収め、かつこの3省をそっくり共産軍に渡した。  蒋介石総統はこの背信に激怒し国連に提訴した。
その結果1952年2月1日の第6回総会の決議でつぎのように罪行が確定した。 「ソ連は日本投降後中国国民政府が東北3省に於いて、主権を回復しようとする努力に対し終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事、経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。 本総会はソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約を未だに履行していないと断定する」  これを受けて中華民国は1952年2月15日に同条約の無効を正式に宣告した。)  この中ソ友好同盟条約のソ連による蹂躙と日ソ中立条約破りとは非常に類似しているのである。
したがって、今後 日本の取るべき道は、まず国連へ前記5に述べた国際条約破りの犯罪について提訴し裁定を求め、国際社会の合意をもとめる事と思うのである。

(2)その次ぎの段階として日露の領土交渉を改めて出直すことである。 ロシヤ側は過去に歯舞、色丹島の返還で領土交渉は終わったと云ったが、上記のように中立条約破りの不法が証明されれば国後、択捉島への侵攻は正当性を失うのであるから、国後、択捉島の日本主権の確認、と返還、さらに1、に示したかずかずの付帯した非行について決着をつけるべきである。
 また4、に示したソ連の謝罪が正式に文書化されるべきである。  これらが全て完了した後樺太南部と千島列島の中部、北部のロシヤへの帰属を日本が承認するという順序になるものと思う。

(戦後68年を振り返って 第17話 終わり 平成27年2月7日北方領土の日にちなんで)      参考文献        蒋介石秘録(上)   サンケイ新聞社                  

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