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2014年7月 9日 (水)

戦後68年を振り返って 第16話

戦後68年を振り返って 第16話

第2次世界戦争の末期に繰り出したスターリンの非行を検証する

 それは国際条約破りという形で2件現れたのである。
一つは日ソ中立条約破りで日本人なら誰でもが知って居る、今一つは中華民国とソ連が締結した中ソ友好条約であった。

1、 中ソ友好条約の顛末
この条約はヤルタ密約によるソ連の対日参戦の報酬として、特に中華民国の国権を人身御供に提供するような内容に蒋介石が不満を持ち、義兄宋子文と息子蔣経国をソ連に派遣し、スターリンと会談を持たせた際に生まれた条約であって1945年8月14日に締結したものである。 
 すでにその一週間前の8月8日に対日参戦したソ連軍は中国の 東北(満州)に大量の軍隊を投入し、中国領に深く進入していた、この軍隊をいつまでもそこにとどめる事は東北地方を共産軍の手に引渡すのに等しい。
中ソ友好条約はそれを防ぐ防波堤となるべきものであった。
 条文は連合国軍の対日作戦への協力、相互支援、平和維持への努力、両国の主権と領土の尊重をうたうことは当然であったが付帯条件としてソ連軍は日本敗退後3週間で撤退を開始し3カ月で完了すると記載された。
 ところがスターリンは条約成立と同時にこれを踏みにじるという背信行為に出た、満州に侵攻して2週間で東北三省全域を手に入れたソ連軍は3カ月で撤退するどころか東北三省をそっくり中国共産党に渡してしまった。
 激怒した蔣政権は国連に提訴して取り上げられ(常任理事国同志の争いなので拒否権の行使は無かったのであろう)1952年2月1日の第6回総会決議でつぎの判決が出された。
 「ソ連は日本投降後、中国国民政府が東北三省において主権を回復しようとする努力にたいし、終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事・経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。
 本総会は、ソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約をいまだに履行していないと断定する。」
 これを受けて中華民国は1945年2月15日、同条約の無効を正式に宣告した。

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 何という背信であろうか、ソ連と友好条約を結んだ結果偉大な穀倉、東北三省を中共に攫われ、長征で体力を消耗し、大躍進のみじめな失敗をした中共を蘇生させ、かつ中華民国は台湾にこもらなければならなかった、そのもとは人間技と思えないスターリンの非行であった。

 ローマ時代の大政治家、大カトーがいつも演説に付け加えた「ところでカルタゴは滅亡されなければならない」の言をまねれば
「ところでスターリンは否定されなければならない」と云おう。

2、 日本へのスターリンの背信行為
 戦後に明らかになった事実を総合すると、1945年2月4日~11日のヤルタ会談で秘密裏に対日参戦を言明したスターリンは着々と其の準備を進める、欧州戦線に張り付けた160万人の軍をソ満国境に送り返す作業である。これはドイツが全面降伏した1945年5月8日から開始された。これは隠密裏にすすみスターリンの構想どうり3カ月後、8月初めにソ満国境に配置された。
 日本の最強部隊である関東軍が展開するソ満国境に展開し日本への参戦の体制は整っていた。ただしこのソ連軍の行動は秘密裡であり、日本は全く気付かなかった。
 即ち日本への参戦、日ソ中立条約破りはこの5月から8月8日までに準備完了していたのである。
 このソ連の内情を全く知らない日本政府は同じく5月8日にドイツ降伏の報をうけて鈴木貫太郎首相は米英及び中国に対して講和を申し出ることを決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいるソ連に頼むしかないと政府首脳は決議した。これは当時誰が考えても至当な決定であった、アメリカに直接和を請うことは非常に条件を下げることになるので考えられなかった。
 ここから悲劇が始まることになる、国と国の考えのチグハグ全く正反対ははとんでもない方向へ進んでいくことになるのである。
 まず和平交渉の仲介を伝えるために元首相広田弘毅氏が行ったソ連マリク大使との折衝はすべてがはぐらかされてしまった。
 政府はそこで昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた。ところがこの佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。
 この2カ月と10日の空費は日本にとっては大きかった。アメリカでは原爆の製造が最終段階に来ていた、1945年7月16日ポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられ、大統領はこの爆弾を8月3日以後なるべく早く天候を見て、すでに選定していた日本各都市へ投下するよう訓令を発したと云う事である。
 そうすると8月3日以前に和平交渉が開始できていれば爆弾が完成していても投下されることは無かったのである。
 8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾の投下はこの2都市の民間人、老いも若きも朝礼中の小学生までも422,200人が被爆し即死または原爆症で苦しみその後に命を断つと云う惨禍、これを春秋の筆法でいうなら中立条約破りを秘密裡に着々準備しながら日本を裏切った行為のよって引き起こされたと云えるのである。

 「したがってスターリンの日ソ中立破りは人類に対する大犯罪を引き起こしたと断じなければならない」

3、 中立条約下でのソ連参戦
 1945年8月8日佐藤大使はクレムリンに呼ばれ、モロトフ外相から「ソ連政府は8月9日を期して日本と 戦争状態に入る事を宣言する」との通告書を渡された
 また東京ではマリク大使が8月10日に東郷外相を訪ねて右の宣言書を伝達した。
これほど酷い国際間のやりとりが過去にあっただろうか。
 この宣戦布告に対して日本政府はこの事実行為にどうする事も出来ず、ただ東郷外相は次の文書をソ連政府へ送った
「日本側においてはソ連邦とのあいだに長き期間にわたり友好なる関係を設定する目的を以って来たり居り、最近においても5月始めより広田元首相をして貴大使との間に話し合いを進めしたるが右に対しソ側より回答に接し居らず。尚7月中旬、人類を戦争の惨禍より救うためなるべく速やかに戦争を終結せしめんとの陛下の大御心により右をソ連側に伝達し日ソ間の関係強化、戦争終結に関する話し合いを為すための特使の派遣 を申し入れたるがこれにたいしても未だ回答無かりし次第なり。即ち我が方においては戦争終結に関するソ連政府の回答を待ち米英重慶三国の共同宣言に対する態度の決定に資したしと考え居りたる次第なり。
貴方にいては三国の共同宣言は拒否されたとされ居るところ、右が如何なるソースによりて知り得たるものなりや承知せざるが前述の事実に鑑み日本へ何等の返事をすることなく,突如として国交を断たれ戦争に入るるは不可解の事なり。
 東洋における将来の事態よりも甚だ遺憾なりと云わざるを得ず
 みぎはやがて世界の歴史が裁判すべく、今は本問題に付き話す事は差し控えたし」

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 戦後70年間世界の歴史はこの事を裁判しなかった、私は本論を以っておこがましくもこれを論じようとして居る。
 多くの有志がこの問題を論じて貰いたいのである。――先へ進もう。

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1945年8月9日未明にソ連軍は157万人の陣容で満州、樺太方面へ侵攻した、これに対する関東軍は75万人と云うもののすでに精鋭部隊は南方へ派遣された残りで装備も不十分であった。
 殆んど抵抗も出来ず広範囲な満州国境地区、北部、東部、西部、の各方軍は津波のように押し寄せるソ連軍に対して約1週間苦戦をしたが、8月16日関東軍総司令部から停戦の指示がされた、また樺太南部へは8月11日から侵入8月23日に停戦協定が成立した。
 ところが北千島、南千島への侵攻は様子が違った、占守島には8月18日、中千島の松輪島には8月26日に、ウルっプ島には8月31日に、そして以後今日まで問題となって居る択捉島には8月29日、国後、色丹島には9月1日に上陸して日本軍の武装解除をした。
 この北方領土への侵攻の日が問題なのである、日本のポツダム宣言受諾の8月15日から2週間以上を経ているのである。
 スターリンは8月15日の降伏を即日知って居た、だから8月16日に米トルーマン大統領に戦後の日本占領のソ連担当地区として北海道の北半分を要求して,翌17日にトルーマン氏から拒絶の文書が出されたと云う史実がある。
 したがって8月15日の日本降伏を知りながら北方4島の攻撃を差し止めなかった、不作為は戦後の歴史での大きな問題点である。それは次のような非人道的な行為として現れた。
 その後直ちに北方4島の住民17,291名は財産すべてを残して北海道へ移住させられた、それはこの命令に従わずに残れば、ロシヤ国民とされてしまうからであった。この人々は今や70年を経て孫の代になっているが望郷の念は消えていない。
 次に満州、樺太、千島、朝鮮で囚われた日本軍あわせて,陸軍581,600名、海軍4,000名、その他に満蒙開拓団の人々270,000名が1000名単位の作業大隊に編成されてシベリヤ、中央アジヤ、モンゴルに送られ、その後10年以上にわたる惨憺たる労働に服させられた。
 この事はスターリンの非行の4つ目に数えられる。

「したがって北方4島への侵攻は中立破りのスターリンの次の領土侵略であった」

4、 スターリン犯罪の連鎖
 日本を侵略国家と見、ソ連の中立条約破りは正義の為の戦いだとする歴史観を創作したのはスターリンであった、しかしこの史観なるものには容易に論破できる。
 ヤルタ協定なるものが第二次世界大戦の末期の連合国の戦後報酬についての密約であり、何等国際条約的な重みをもつものではなく、これを以って米英首脳の承認を得た対日作戦と云うがこれら首脳が黙認したソ連独自の行動であり、世界の国々を戦禍から守る聖戦であるとしたのは後から創作した理屈である。
 それが証拠にはこの事は米英ソ支の4国以外に誰も知らなかった、これが世界に知られることになったのは、1946年5月の極東国際軍事裁判でソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際を社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露したからであった。
 これは歴史の改ざんである、ところがスターリンはこれを国内のあらゆる文書、その他の媒体をつうじて国民に植え付けた
 恐ろしい国があったものである、独裁者の非行を隠すために歴史を改ざんし、これを国民に信じさせる。しかもそれはその後何十年も国をあげて実行されたとは。
 したがってその後歴代の大統領もこの史観に汚染されている、或いは国民の支持を得るためにはこの史観に反する立場をとることが出来ないと見られる言行が多いのである。
 このようなロシヤの国内情勢から北方領土問題は歯舞、色丹島の返還から先に進めなくなってしまった。

「したがって誤ったスターリン主義は断ち切られなければならない」

5、 ロシヤ国の先覚者の至言
 ゲンナジー、ブルブリス氏は1993年頃エリツイン大統領時に改革派の国家院議員であり、国務長官であった、この人が公の場で、ロシヤ正義のために北方四島は日本に返還すべしと発言した。
 それはスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本へ返還すると云うならば、北方領土問題の解決とロシヤの国益との間に矛盾は生じないと云う説を述べたとの事である。
 またスターリンの暴挙と云う点で北方領土の問題と日本兵のシベリヤ抑留問題は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言し1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとの事であった。(鈴木宗男、佐藤優著 北方
領土特命交渉より)

 ところでロシヤ国の国益と云う事を考えて見よう。遠い将来の世界の評価と云う事でなくても,直近の問題として南樺太(サファリン)とウルップ島以北の千島列島の帰属の問題がある。これらはサンフランシスコ平和条約で日本は放棄した、しかしそれらがどこの国に帰属するかはまだ決められていない。それは来るべき日ロの平和条約で日本がロシヤへの帰属を宣言すればロシヤの物になるのであって、現在これらを実効的に使用し名称をサファリン州などとしていても国際法上主権はロシヤには無い。

 まずこう云う実益がそこに転がっているである、ただしこれはロシヤ政府がスターリン主義を脱却してスターリンの非を認め、北方四島を日本に返還する事によって
平和条約の締結に進めることが出来るのであって、ブルブリス氏が国益に資すると云うのはこの事を指していると思われる

 ロシヤ政府に望むのはフルシチョフ政権時に行われたスターリン批判は国内政治の誤りの修正であったが、その時に取り残された外国との関係での誤り、上記の中華民国との友好条約の破棄と日本の中立条約破りの反省を実行しなければ、ロシヤは今後国際社会から認められる存在とはならないと云う事である。

 「したがってスターリンは再度抹殺されなければならない」

 (戦後68年を振り返って 第16話終わり 久保田英三 26,7,7)
参考文献
 蒋介石秘録  サンケイ新聞社刊
 北方領土特命交渉 鈴木宗男、佐藤優著 講談社刊
 ロシヤから見た北方領土 岡田和裕著 潮書房光人社刊
 トルーマン回顧録 堀江芳孝訳 恒文社刊
 戦後67年を経て 次代に託す諸問題 第3話~第6話 久保田英三ブログ

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