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2014年6月25日 (水)

戦後68年を振り返って 第15話

 
スターリン主義からの脱却・・プーチン大統領への提言

 北方領土問題が膠着している原因にスターリン史観が大岩となっているのは明らかである。

 ところで最近エリツイン元大統領(1993年頃)の知恵袋といわれたゲンナジー、ブルブリス国務長官の主張として[日本人がいらないと云ってもロシヤは北方四島を日本に返還しなくてはならない]という基本姿勢を持ち、スターリン主義を脱却することがロシヤの国益にかなう。
スターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本へ返還すると云うならば、北方領土問題の解決とロシヤの国益との間に矛盾は生じないという説を述べた事を知った。(鈴木宗男、佐藤優著 北方領土特命交渉 講談社版 264ページ)
スターリン主義の暴挙と云う点で北方領土問題とシベリヤの抑留問題は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言し1993年10月の公式訪日で天皇陛下、総理大臣に頭を下げて謝罪したとのことである。
また択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の名を挙げてこれらの四島の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結するというルールを定めた東京宣言に署名したと云う歴史であった。

 私はスターリンはその史観を強力に国内の各種機関を総動員して国民に押し広めたとのことであったのでこの史観が全国民に浸透してしまったものと、思っていたが、上記のような説がある事を知って、やはり知識人の間では事柄の是非ということは顕れるものとの感を深くしたのである。

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 そこでプーチン氏に対する提言であるが、一言で云ってスターリンの過ちをつまびらかにして、国際正義にもとずいてその誤りを正すべきが今であると云う事である。
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それは日ソ中立条約がある中で日本への宣戦布告は云うまでも無く完全に不法である。これを米英首脳の承知の上の行動であったと云う虚構。日本への攻撃が聖戦であるとする事実に反する宣伝。さらに戦争が終わった後2週間後の北方四島への侵攻とその後の居座り。
これらの悪事の連鎖を反省し、これらの誤りを正すべき時は今であると思考するのである。

それが何故に必要であるかといえば、それなくしては北方四島の解決は国際社会の理解が得られない、そしてどの国であろうと、今後のロシヤとの条約というものはいつ破られるかもしれない、良い加減なものという前提でしか結べないであろう。
北辺の2島を得るのにこのような国際評価を受けてそれがロシヤ国の国益に資するだろうか、この事を考えての上記のブルブリス氏の北方領土返還国益論であったと思う。
 

再述すれば、北方四島を日本に返せばロシヤの国益にかなう、なぜならそれでロシヤは正義を回復したと国際社会から認められ、ロシヤ人としての正しい歴史観が復活する。とブルブリス氏は説くのである。
 過去にフルシチョフ政権時スターリン批判がなされ多くの国内政治面の誤りが指摘されたようであるが、外国日本の領土奪取の行為がチエック漏れになっていた、これを今糺す必要があると云うのである。
 

さらにスターリン主義信奉を続けることは、むしろロシヤ国民を貶めることになる。あの偉大な文学を生み芸術を育てたロシヤ国民が、スターリンの誤りが判らないとは考えられないのである。 
 

プーチン氏にスターリン主義脱却への献身を期待したいのは今である。その理由は今や戦後69年 その間不法の侵攻をして門戸を閉ざし、かつ住民1万7千余人を北海道に強制移住の非行の憾みは消えていない、これを糺して正常な国際関係に戻すのは今なのである、それがロシヤ国の国益に資する道をたどる時である。
 

まず北方から自由平和な日ロ関係を構築することがロシヤ国にとっても大事な時期と思うのである。

(補足)
 スターリンの本音
スターリンが国際条約についてどう云う考えをもっていたかを示す資料があった。

それは1945年6月27日から7月12日まで蒋介石中国主席が宋子文と蔣経国にスターリンと中ソ友好条約について話合いを持たせた時の事であったが、蔣経国とスターリンが二人きりになった時スターリンが[国際条約というものは良い加減なものだよ]と話した。蔣経国青年はその以前3年間ロシヤに留学してロシヤ語に堪能であった。この若者にスターリンは心を許して話をしたのであろう。条約破りを決意したことを云ってしまったのである。(蒋介石秘話)

 国際条約破りの犯罪性
中立条約破りという非人間的な行為の犯罪ほそれを実行する以前、3カ月前1945年5月にあらわれた。5月8日のドイツの全面降伏の報を受けて当時の日本政府、鈴木貫太郎首相は米英および中国に対して講和を申し出ることにした。
  講和の仲介をどこに頼むか、中立条約の有るソ連に頼むしかないと政府首脳は決議した。
これは当時誰が考えても至当な決定であった、直接アメリカに和を請うことは非常に条件を下げることになるので考えられなかった。
 この仲介の事を伝えるため元首相広田弘毅氏が行ったソ連マリク大使との折衝はすべてはぐらかされてしまった。
政府はそこで昭和天皇の特使として近衛公爵を起用することにし、この事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた。この佐藤大使のモロトフ外相との打ち合わせたいとの申し出も遷延されて、7月18日になって拒否された。
 この2カ月と10日の空費は日本にとって大きかった、もし6月からでも和平交渉が開始されておれば広島、長崎への原子爆弾の投下は無かったのである。この2都市の民間人老いも若きも朝礼中の小学生までもが422,200人が被爆し即死またはその後の原爆症で命を断つという惨禍は無かったのである。
 

その後のアメリカの発表では原子爆弾完成の報は1945年7月16日ポツダム会談に来ていたトルーマン大統領に知らされ、大統領はこの爆弾を8月3日以後なるべくはやく
すでに選定していた日本各都市へ投下するよう訓令を発したと云う事である。
 

そうすると8月3日以前に和平交が開始していれば爆弾が完成していても投下はされなかった。
 春秋の筆法を以ってするなら日本2都市の原爆投下はソ連の話し合い引き延ばしの結果でうまれたと云えるのである。
 中立条約を破る事に罰則は無い、制裁も無い、しかしこのような副次的な罪禍が起こる事を知るべきである。

   (戦後68年を振り返って 第15話終わり 久保田 英三 26,6,22)
 

 参考資料
   北方領土,特命交渉 鈴木宗男、佐藤優著       講談社
   蒋介石秘録

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