2017年3月12日 (日)

戦後を振り返って 第25話

戦後を振り返って 第25話

      北方領土の歴史事実を振り返る事により領土問題の解決策は明らかになる

 クリル諸島に関する19世紀の外交文書を見ると北方領土近辺の事情、国境等がはっきりしてくる、それは

1、1855,2,7日魯通好条約  第2条 今より後日本国とロシヤ国との境「エトロフ」島と「ウルップ」島の間に在るべし「エトロフ」全島は日本に属し「ウルップ」全島より北の方「クリル」諸島はロシヤに属す(以下略)

2、1875、8,22樺太千島交換条約   第2款 全ロシヤ国皇帝陛下は第1款に記載せる樺太島の権利を受し代としてその後胤に至る迄現今所領「クリル」群島即ち第1「シュムシュ]島第2「アライド」島第3「バラムシロ」島第4「マカンシル」島第5「ヲネコタン」島 第6「ハリムコタン」島第7「エカルマ」島第8「シヤスコタン」島第9「ムシル」島第10「ライコケ」島第11「マツァ」島第12[ラスツア]島第13「スレドワネ」及び「ウシシル]島第14「ケトイ」島第15「シムシル」島第16「プロトン」島第17「チエルボイ」ならびに「プラット、チエルボエフ]島第18「ウルップ]島共計18島の権利及び君主に属する一切の権利を大日本帝国皇帝陛下に譲り而今而後「クリル」全島は日本帝国に属し東察加地方「ラバッカ」岬と「シユムシユ]島の間なる海峡を以って両国の境界とす

(以上は2001,1,16に日本国外務省とロシヤ連邦外務省の共作の「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」より転載)

この歴史を読むと古来クリル諸島(千島列島)はウルップ島より北の18島であり、歴史によってクリル諸島の国の所属が変わっても、その境界はウルップ島と択捉島の間にあると云う事を示している。

1951,9,8のサンフランシスコの連合国との平和条約の第2条(c)の云う千島列島は上記ウルップ島より北の18島なのである。 従って今後に予想される日露平和条約でも北方領土の定めはウルップ島の南 択捉島以南が日本領と云う事になり現状と変わりは無い。

 処で北方領土につき、ロシヤは日本との第二次世界大戦に勝利したから北方領土を獲得したとする考えがあるとの事である、これを検証してみる。

それはソ連の対日参戦のころからのことになるが、関係する事柄が錯綜す るので、順に書き出して見る、

s20,8,6、アメリカによって原始爆弾が広島に投下された s20,8,9 ソ連の中立破りの対日宣戦布告

s20,8,10 ソ連軍のソ満国境を越えての侵攻

s20,8,15 日本のポツアム宣言受諾

これより先にスターリンは対ドイツ戦を終わって160万人のソ連兵をソ満国境に戻し日本との中立条約を破棄して満州に攻め入る日をドイツ降伏の3カ月後として、8,10に侵攻し、攻め進む事によって日本の降伏をさせ、戦争終結の立役者の栄を握るつもりがあった。 ところがアメリカによって8,6に原爆が広島に続いて9日に長崎に落とされ 42万人余に人を殺傷したことがその後数日に知られると彼は考えを変更せざるを得なかったであろう、トルーマンに先を越されたと、知ったのである。

(事実日本天皇のポツダム宣言受諾の詔書には原爆の投下が宣言受諾のキーワードであったことが記載されている。)

また事実ソ満国境を越えて侵攻したソ連兵は中々進まない、その頃スターリンは日本を降伏させる夢の代わりに2つの考えを持った。 1つは満州重工業地帯の工場設備の掠奪である、10数社の工場群を根こそぎ取りはずし列車にのせてシベリヤ鉄道でソ連国内へ運びこむ事であった、松花江上の巨大な発電機5基も持ち去られた、 2つ目は日本軍兵士を捕虜として拿捕してシベリヤ等辺地の送り労働力とする計画であった。

これはスターリンが議長となって20,8,23にソ連政府の国家防衛委員会の決定を見た案で極東、シベリヤ等の環境下で体格面で適した日本軍捕虜を50万人 を選別しロシヤ各地に送る、と云う決定をした、これはあとで判明したことであったが、このことは満州で直ちに実行された。

 日本軍は8,16以後天皇の詔勅に従い各地司令は停戦を指示、各地で降伏した この日本軍をソ連兵は直ちに捕虜とし、全て階級を外して、1000名ずつの作業大隊として編成、シベリヤからモンゴール、中央アジヤ各国の辺境諸国に数万人ずつを送った。

(日本政府は20,11月にソ連のこの行為がポツダム宣言第9条に違反する事としてソ連政府へ抗議を申し入れた結果1946.12に日本人抑留者の帰国に関する協定が出来たが、その帰国作業は遅々として進まず多くの抑留者は3年から10年も異境で苛酷な労働に服した、最後の復員船が舞鶴港に着いたのはs56,12月であった。)

 このようにスターリンの考えのなかでチグハグはあったが、苦し紛れに打ちだした人道を無視した事業はすべてが完全実行された、日本の抗議も後の祭りであった。 満州重工業の国家的掠奪は後にアメリカのポーレー調査団のしらべでは895億ドルに及ぶとされた。 捕虜の拉致の労働力化は後に追加されて60万人となった。

最後に北方4島に関することであるが、戦後終戦から2週間も経った8,29に 択捉島に9,1に国後島と歯舞諸島にソ連兵が上陸し、銃器を出させて取り上げ 日本兵全員を作業大隊として送りだした、これは満州における労働力60万人の達成のための最期の仕事であったとしか思えません。

(この時の北方の兵士の気持ちをおもうと涙がでます、長い戦争が終わりこれで故郷にかえることが出来ると思った矢先、いきなりロシヤ兵がおしよせて、自由をうばわれ捕虜として抑留されロシヤに連れられる、目的は強制労働、労働協約も期限もない、スターリンは鬼としか思えません)

北方4島で大戦の最期に起きた事件はこう云う事なのです。北方4島から拉致されて抑留された兵士は記録に残って居ます。

こう考える世界戦争に勝って北方領土を獲得したという考えはどこから出るのでしよう。ロシヤは満州重工業の895億ドルの他60万人の抑留日本兵士 の労働力で大きな利得をしている。その上何を望むのか。

私はこの事は世界の人々に考えて貰いたいと思います。

 最後に今後の北方領土に関するロシヤとの交渉についてです それは
1、 樺太南部とクリル諸島(千島列島)ウルップ島より北へ18島はロシヤに帰属する。
2、 北方領土に居住するロシヤ兵は家族ともウルップ島等ロシヤ領に送還される。
3、 ロシヤの軍事施設等はウルップ島等に移される。
4、 上記ロシヤに返還された領土及びその他の極東地域への経済開発には日本が協力する。
5、 上記を骨子として日露平和条約の締結に努力する。
このような事に尽きると思います.。             

 終わり

                 平成29年3月8日  久保田 英三   

2017年1月 2日 (月)

 

戦後を振り返って第24話

 

   長銀問題の総括、  

   金融再生法実験の結果は如何に、金融再生委員会が成し遂げたものは?

 

 平成10年10月16日に施行された金融再生法に長銀をあてはめて、金融の再生、安定を目指すとして金融再生委員会は活動を始めた。それは国の統制下で長銀を処理する事であった。

 

1、 長銀の国有化

 先ず第一に平成10年10月23日に長銀はこの法によって国有化された

そして10月28日に預金保険機構により全株式24億9290万4千株が収用(没収)された。

これはこの統制法の眼目となる基本的な一撃であった。これによって長銀株は日本の株式市場とは隔絶された。

日本の株式市場は正常であった、ところが金融再生法なる特別法によって、

長銀株24億9290万4千株のみが株式市場とは無関係に、売り買いも出来なくなった。それは政府によって捻じ曲げられたのである。

日本国民、いな全世界の人々は日本の株式市場を信頼し、安心して株式市場に没入していた、それが10月23日に突然新聞の株式市況欄から長銀は外されてしまった。

 これは正常な日本の株式市場を信じて生きて30年を過ごした長銀の35000人の株主にとって晴天の霹靂であり考える事も出来ない事態であった。

10月28日の預金保険機構からの収用通知が送られた時にはあまりの事に声も出なかったのである。

ただこの収用通知の最後に「後に長銀株価が算定されたときに、対価の請求が出来る」との文章にわずかに望みを掛けた。(しかしこの言質も後に空文となってしまった)

 

 これが金融再生委員会のペテンの基本であった。

 

2、長銀株価の決定

 株価の算定については平成10年10月中に落合誠一氏を委員長とする5名の委員会を任命して形を整えて居た。

処が12月15日に再生委員会は長銀株価算定を株価算定委員会に諮問するその日になって金融再生法施行規則を定めて官報号外で公布した。

その追加文言は「特段の事情の無い限り長銀を清算するものとして算定する」であった。

 (会社の清算とは「法人が解散して財産の整理を為す手続きをいう、また会社の法律関係の結了及び財産の処分を為す行為」と法律学辞典に記載されている。

平成10年時点で長銀の清算の問題が出た時長銀の保有有価証券の処分は証券業界からはそれは不可能、金融界の壊滅になるとの悲鳴が出たいた。

長銀の保有有価証券、1銘柄、億単位から数千万、数百万株単位の200社を超える会社、金額にすれば2兆8746億円のものを処分出来るか否かは経済界に居る者なら常識であった)

 

 即ち長銀の清算は不可能であった。

処が再生委員会は不可能と云う理論にも実状にも一顧も払わなかった。規定を定めたとして押し通した。

なお長銀は清算出来ないという特段の事情があったがそれも顧慮されなかった。

 

この施行規則を定めたからには實行するのみと云う第2のペテンであった。

 

 株価算定委員会はこの諮問に不審を抱きながらも平成11年3月30日に

  長銀普通株の価額は 1株     0円

  長銀第2回優先株の価額は 1株  0円

と報告した。

 (然し株価算定委員会は長銀を清算するものとしてと云う前提を不審に思ったのであろう、報告書の末尾17ページに継続企業の前提で算出した純資産の額は1569億91百万円であるとつけ加えている。

 

 長銀株価はこのような金融再生委員会のゴリ押しの結果0算定がまかり通ってしまう事になる。

1569億91百万円の純資産と2兆8746億円の有価証券を保有し、年間1700億円の配当利益を得る長銀が株価0円と押し込まれているのである。

 即ち金融再生委員会の0算定以外は認めないという独断的な考えを示すものである。

 

3、金融再生委員会の恣意的な施策の実行

(1)平成11年9月28日に政府が1998年に長銀に注入した1300億円を

 優先株1億株としていたがこれを1000億円として新生銀行の1億株とし

 たと発表した。

 これは明らかに11年3月30日に株価算定委員会が1株0円と発表された

 ものが1株1000円になって居る。

 これは全くの無法の極み、国民を愚弄した行為と云わねばならない。

 無価値とされた24億9290万4千株の内、国の持つ1億株を金融再生委員会が株価算定委員会の決定を無視して1株1000円と値付けして新生銀行の株とした、ならば株主平等であるから残りの23憶9290万4千株も1株1000円と価値ずけられるべきなのである。しかしその後17年間その動きは無かった。

 

 (2)次に11年9月28日にそれまでの長銀国営下の保有有価証券の配当益

 2500億円を新生銀行の国名義の株式としたと発表した。

 これは全額を国が取得するべきものではない。国に権利があるのはそのうち

 の24億分の1億即ち24分の1である。

 ここで国は約2300億円分他人の権利分を国のものとする再生委員会の行

 為であった。

 

 (3)金融再生委員会はその他の長銀国営下の収益金をも併せ上記①②と合計

 して国が4億6916万株(16,9%)の新生銀行の筆頭株主となったとしたのである。

 

この平成11年9月28日の上記①②③の金融再生委員会の行動は常軌に逸した行為というべきで、常識にも株主平等の原則にももとり、他人の権利侵害など云うに耐えない事ばかりである。

金融再生法の理念に合致する処は見られないのである。

 

4、金融再生委員会のやり残しの問題

 最後に残るのは長銀株主の問題である。

長銀株主の内、日本国の1億株の優先株は上記2の①に述べたように新生銀行の1億株の株主と処を得て居る。

 残りの23憶9290万4千株の普通株の事である。

平成11年9月28日に長銀の全てを新生銀行ヘ金融再生委員会が譲渡した時

上記23憶9290万4千株も新生銀行へ引き渡された。

従ってこの長銀株の処遇については新生銀行に権原が移ったのであろう。

処が長銀の株価がはっきりしなくなっている、それはH11,3,30の4株価算定委員会の0円の他に、上記3の①の長銀株価1株1000円と云う金融再生委員会の値が出てきているからである。

 

長銀株価がはっきりしなければ新生銀行で23憶9290万4千株の処遇を考えることが出来ない。それで長銀株価を清算(理論的にも出来ないし現実にこの17年間それは着手もされなかった)と云う事は無しに算定されなければならないと政府にお願いしているのである。

 (なお長銀の株価再算定について私見を申し上げますと、長銀の株価算定には過去の長銀の不良債権の帰趨が関係してくると思います、これはその後17年間の長銀の投資資産の配当金、年間1700億円から相当に返済が進んでいると見られ残余は数年で完済出来るのではないか。

すると長銀株価の算定の基礎数字は、残存純資産1569億91百万円+投資有価証券2兆8746億円+年間配当金1700億円=3兆15億91百万円となり総株数で除して1株当たり1400円超になります。)

 

5、金融再生委員会が成し遂げた事

 それは金融再生委員会がなりふり構わず国の権益のみの向上を図った事だけが浮かび上がって居る。

それは正当な行為とは言えなかった、特に株主平等の原則から逸脱した事は問題を残した。

さらに株価再算定の問題を残した、したがって金融再生委員会は任務を完遂したとは言えない。

 

なお上記3に取り上げた、日本国が新生銀行の筆頭株主となった事の由来を

見て誰も納得出来ないであろう。特に長銀時代の1億株の優先株を新生銀行の1億株とした事、それも1株0円との株価算定委員会の決定を無視して1000円の価値ずけをしたことの説明は不可能であろう。

 この事に関しては今後残りの23憶9290万4千株の一般株主の権利の再確認、それは今となっては新生銀行内での長銀株の処遇がされる以外にこの国の巨大利益を容認する事は出来ないと思われる。

 

23憶9290万4千株の処遇確定される事によって、国の1億株の新生銀行の1億株とした事を許容されるのでは無いが、1般株主の権益回復がされれば、混同という意識、社会常識の許容感覚によってこの時の金融再生委員会の行為、1000円の株価も已むないとされるのではないかと思われる。

 

 このような面から考えても長銀株価の再算定の上、新生銀行における長銀株の転換が望まれると考える。

これによって新生銀行の資本が大きく増強されて、初めて金融再生、安定の実が挙がると見られる。

 

 政府に於かれては長銀株の帰趨が金融再生委員会の実行施策の残す問題に深く係わることを御理解いただき、新生銀行の行内問題ではありますが長銀株の

処遇、正当な形での新生銀行株式への合体に御指導,ご協力を下さいますよう

お願申し上げます。                      (終わり)

 (平成29年1月2日 久保田 英三)

 

 

 

 

2016年3月14日 (月)

戦後を振り返って第23話

 長銀問題の解決として新生銀行株式に転換について(3)

 長銀株主に対する補償として第21話と第22話で詳述した。
物事の正否を糾す考えからは長銀の清算を前提とする株価0決定は不当となり従って株価を再算定して株主に賠償せよとなる。しかしこの論は間口が広がり巨大な現金賠償に進み現実的では無いと云う事になった。
一方この問題が起きた平成10年以後の歴史的な歩みから見ると、金融再生法により長銀株全部が国に収用され、その時に後に株価が決定されれば補償が得られるという期待を株主が持ったが6カ月後に清算という条件が加えられて株価は0、全株主の権利は0になると云う世界に類を見ない事が起きたのである。

処が以上のような経過のなかで平成11年9月28日に国が持つ長銀株1億株(同じく価額0とされて居た)について新生銀行株式4億6916万株とした。これは前記の国が決定した事柄を自ら破って実行したのであった。
この経過から考えられることは、ここで国に,さきの1億株と同じく残りの長銀株23憶1707万株についても同様に新生銀行の株式とするよう行政措置を講じて貰いたいという事である。

即ち行政的な対処で長銀株主の権利の保護をお願いするのである。
上記の歴史的な成り行きの結果思いもかけぬ結果となった35,415人(社)の0となった権利の回復を行政的な方法で実行して頂きたい、それは11年9月28日の前例もあるので同様にお願するのである。

補足事項
(1)23億1707万株を新生銀行の株式にてんかんする際の1株単価は新生銀行の決定に依る事になりましよう、それは新生銀行の資本金の増加になりますから。

(2)この増資についての資金は旧長銀資産の保有株式類の配当所得の累積から充当されるべきと考えます。

(3)この株式転換論は第21話22話で述べた金銭賠償論とは別次元の論となりました。
従って問題は長銀株主への補償から離れて、新生銀行の株主となる事の是非、其のことの長銀株主の意思、新生銀行の意思と云う面に進みます。
新生銀行としては多くの巨大な株主が出現することの是非、長銀株主としては新生銀行の行動原理への理解、同意、という事柄もあるであろう。
然しそれらの諸問題を乗り越えて、元は一つの長銀からでた銀行であってその資金の多くの部分を長銀の資産から成って居る新生銀行として株式の合併は是認されるのではないかと思われる。
また長銀株主にとっては、前に述べた金額賠償論とは別次元の株価の決定になっても合体後の新生銀行の進行に伴う業容の変化についての期待は生まれて来るのではなかろうか。

(4)長銀の抹殺をこのまま闇にほおっておく事は法治国として許されない、世界の識者はいつか解決されると見て居るだろう、誰がみても国の1億株は4億6916万株の新生銀行株として残りの23憶1707万株を0とする国のやり方が是認される筈は無い。
23憶1707万株の長銀株が新生銀行の株式として生き何がしかの価値を生むことが出来て初めて日本証券界の公正、株主平等の原則回復の証明がされるものと考える。
それは500人の外国人株主が証明することになるだろう。

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2016年2月15日 (月)

戦後を振り返って第22話

戦後を振り返って第22話2016年2月14日 戦後を振り返って第22話    

   民主主義政治の崩壊と長銀抹殺の誤り是正について(2)

前稿において長銀に関しての政治の混迷とそれに続く施策の概要をのべたが、この問題は 複雑な経緯をたどるので、あらためて詳しく検討して見る。

この問題が起きてから18年経っているが、その間を振り返って中に誤りがあればそれを糾すのが政治であると思われる、その観点から事の経過を詳しく検討してみる。

1、 時系列的な長銀問題

(1)平成10年10月16日 金融再生法が成立(法律第132号金融機能の再生のための緊急措置に関する法律)

(2)平成10年10月23日 同法により長銀は特別公的管理銀行とされた、すなわち国営長銀となった。

(3)平成10年10月28日 預金保険機構によって長銀の全株式24億1707万株は収用(没収)された。 この時預金保険機構の通知文には 株主は「後に株価算定委員会が株価を決定した時はその対価を請求する事が出来る」と記載されてあった。

(4)平成10年12月15日に金融再生委員会は株価算定委員会に長銀株価の算定を諮問した、ただしこの時にこの算定基準として「特段の事情の無い限り長銀を清算するものとして」すべての資産及び負債を評価すると云う前提が付けられた。

( コメント 1 ) 上記(4)の清算するものとしてという前提は平成10年10月28日の全株収用のときには無かった条件であり、それは平成10年12月15日の官報号外で公示された金融再生法施行規則であった。
これは上記(3)の全株収用の時に長銀株主に与えた対価支払い請求権を詐害するものであり、清算するとすればそれは権利者長銀株主を害する事は容易に予見することが出来る事であるので民法第424条により詐害行為として取り消し得る行為なのである。 (なお会社の清算とは「法人が解散して財産の整理を為す手続きを云う、また会社の法律関係の結了及び財産の処分を為す行為」と法律学辞典に書かれている。
この平成10年時点で 長銀の清算の問題が出た時、その財産の内長銀の保有株式の処分につき証券業界からそれは不可能、それは証券業界、金融界の壊滅となるとの意見が出て居た.一銘柄億株単位から百万株単位等の株式を処分する事が出来るか否かは  経済界に居る者なら常識であった。
長銀の保有株式は後の株価算定委員会の報告では評価額2兆8746億円であったが、それを見るまでも無く長銀の保有株式を処分して清算すると法律の施行規則に規定する事自体常識外れなのである。 この経済界の実状を無視した条件付けから問題は発展して行く)

1-⑤株価算定委員会はこの諮問に不審を抱きながらも平成11年3月30日に 長銀の普通株の対価、第2回優先株の対価共に 一株0円と報告した (株価算定委員会は長銀を清算するものとしてと云う前提を不審に思ったのであろう、報告書の末尾17ページに継続企業の前提で算出した純資産の額は1569億91百万円であるという表を付けて居る。 このような出だしから問題を抱えた長銀抹殺は進んで行く

2、 国が国営長銀をリップルウッド社を核とする投資組合に譲渡(国はこの様に言う)する経緯(日本経済新聞の記事) 平成11年9月28日に金融再生委員会はこの譲渡を決定して翌日に新聞発表した。

(1) リップルウッドは国が保有する長銀株を10億円で買い取る

(2) 長銀資産を再査定し、国が貸し倒れ引当金3000億円~5000億円を積み増す

(3) 本来は長銀の債務超過の穴埋めに使われるはずの長銀保有株の含み益2500億円強を実現し、新長銀の資本に組み入れる

(4) 譲渡後3年以内に2割以上価値が目減りした債券は預金保険機構が買い戻す。 これらの公的支援の引き換えとして契約には譲渡後3年間は資産の売却や急激な回収を行わない旨を付ける

(5) 98年3月に公的資金で投入した優先株の70%の1000億円を新長銀に継承させる

( コメント 2 )

この発表は国民に対する虚偽の発表である、それはその後に新生銀行のホームページでは国営長銀から新生銀行への社名変更、代表者変更であると記載している。したがって設立は昭和27年12月(長銀設立の日)を記載している。 上記2-(1)の10億円というのは24億1707万株の会社の譲渡金額とは到底思えないこれは社名変更と営業権を引き継ぐ承諾料であったであろう。 また譲渡であったならば長銀保有の株式類2兆8746億円分はどうなったか、これは後に新生銀行に移された事が明らかになって居る、これが譲渡されたのならば膨大な譲渡所得の税問題がでるはずであるがその気配も無い。 この新生銀行への移行を特に問題にするのでは無い、社名変更ならばそれで良いと思う、ただ国が虚偽の発表をするのは何かと問うのである。  もう一つの問題は株価算定委員会が0円と決定した長銀株を国が価額をつけて新生銀行の株式とし、これをもとにして新生銀行の4億6916万株の株主となって居る事。 株主平等の原則を踏みにじる行為である。  

以上が長銀抹殺劇の第1幕である、それは政治による長銀の退場は止むを得なかったとしても,退場させる方法に問題があった、会社清算という不可能な事を株価算定の条件とした事によって長銀株は0円となった。 処がこの結果が却って政府が困る事になったのである、無価値の長銀株に勝手に値を付けて新生銀行の株式とすると云う魔術を使って新生銀行の筆頭株主となったのである。これがこれまでの経過である。

これから今後の第2幕、第3幕に進む、それは結論的な考察である。

3、 第2幕は長銀株式価額の再算定の要求である、それは株主平等の原則に戻ることである。 その方法は平成10年12月15日に加えられた「長銀を清算するものとして」という条件を外す事である。これは長銀の清算は不可能と云う事が特段の事情に当てはまることで容易に条件から外せると考える。 従って株価算定委員会に長銀が営業を継続するものとして株価を算定して貰うことになる。 なお長銀は平成10年10月のこの問題発生以来業務は休むことなく続けられ勿論清算される事は無く国営長銀として、また平成12年6月に新生銀行と行名が変わっても営業は続けられている。 したがって株価算定の時期をいつ時点とするかは、平成12年6月が基準となるであろうが、それ以後の営業継続を加味されたものであるべきと考える。

4、 つぎに第3幕としては長銀株主に対する補償である。 これは老婆心的な記述となるが、ここまで言わないとこの劇は終わらないので付記する。 ここで先ず考えるべきは、株主の内、国の1億株は除外される事である、それは上記2に示したとおり、すでに国が自ら対価をきめて新生銀行の筆頭株主の座を得ているからである。したがって24億1707万株から1億株差し引いた23憶1707万株が対象となる。

再算定された長銀株式の価額を株数に掛け,遅延損害金を付加したものを損害賠償金として各株主に支払えば良いのであるが、ここに長銀の特異性が出て来る。 それは巨大な株主が多い事でそれは日本の産業復興期に大資金の長期貸出しという社会的な使命から融資と同時に資本面でも日本の重大産業を支える使命的な役割を持ったため巨大資本の援助、すなわち株式保有での支援が続けられた。それが30年以上に亘って積み重なっての巨大な株式保有となっている。 1企業に対して億株単位から千万株単位という保有も少なくないのである。 これらの大企業に一時金で賠償をすることは常識的ではないし相手方も処理に困る事になるのではないか。

ここで考えられるのは長銀保有株2兆8746億円と評価されとものは一括して新生銀行に移されたのであるからそれはそのまま新生銀行側に在る筈である(これは平成11年以後に信託財産として別管理されているようであるが)、ただしこれに手を付ける事は出来ない。 然しこの資産は毎年配当所得を生みそれは1年に1800億円以上である(前記2-③の2500億円は1年半の数字であり、これから1年分は1800億円と見られ、その後の配当性向は向上している)、これがその後18年間積み上がっており、それは3兆 600億円以上となるが法人税を差し引いて2兆1400億円以上となるだろう。 そうするとこの配当所得はもともと長銀の投資活動の果実であり長銀株主とは縁の深いものであり今問題にしている長銀株主への補償の財源として新生銀行の同意が得られるのではないか。 そしてこの流動可能な資金で長銀株主への補償は充分の額に積み上がっているのである。

(株主に対する賠償のシュミレーシヨン)

仮に株価が一株500円と算定されたとした場合

 個人株主に対しては一時金 1億590万株×500円=630億円

          630億円+遅延損害金5%×18年=1207億円

 法人株主に対しては保有株式総額2兆8746億円を財団の元本としてその配当金から各会社に10%の配当金を毎年支払うことで5年で補償を終わる

       1年間の所要資金2兆8746億円×10%=2875億円   

        2875億円+遅延損害金5%×18年=5463億円   

     5年間の補償額

          5463億円×5=2兆5426億円 (5年目は3574億円)

 法人個人の補償総額 2兆6633億円 < 2兆1400億円+1260億円×5

  このシュミレーシヨンでは幾つかの想定数字を使っている、このように考えれば株主補償の財源があることを示したものである。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまでくれば長銀問題は一応幕を下ろすことになる、すべての問題が終わるわけではないが、一応経済的には決着がつくことになる。

現在は第1幕が終わった処で国は満足しているが他の一般株主は何等解決されていない、第2幕、第3幕に進む事によって国の政治の姿勢を糾した事が示される。

 18年前に長銀株主に補償するには余りにも金額が大きくてそれは出来なかった。故に無理な理由をこじ付けて補償を0とした。

然しその後18年の間に長銀の遺産が果実を生み、その年次収入だけで補償が可能となったのである。元本に手を付けなくても補償が可能になったのであるからこれを実行するべきなのである、18年遅れたがその分遅延損害金をつければ理論的に正当となる。

現自民党にとっては過去の自民党が残した付けの清算であるが、御苦労であるが、今が株主補償の財源が出来た好機ととらえて、この宿題を解決して頂きたいと思うのである。

                      (終わり 一長銀株主 久保田英三)  

   記 長銀関係 諸元

1 長銀株主

日本国         1億株

その他        23億17百万株

 (法人4715社  21億9110万株  

 個人30700人  1億2590万株    内外国人500人)

  合計          24億17百万株

2 長銀の最終純資産  1569億91百万円

3 長銀の保有株式  

株価算定委員会の平成11年3月30日の評価 2兆8746億円

4 新生銀行 (平成12年6月に国有長銀から新生銀行に改称)

資本金  5112億円

大株主 預金保険機構 2億6913万株(9,7%)

    整理回収銀行 2億株      (7,2%)

                               以上                                                

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2016年1月23日 (土)

戦後を振り返って 第21話

2016年1月15日                                              
戦後を振り返って 第21話
        
       民主主義政治の崩壊と長銀抹殺の誤り是正について

戦後の日本の政治70年のなかで民主政治の危機が平成10年から11年に起きた。
これは民主主義政治の崩壊とも云うべきものであった。
この事の問題を取り上げるのがそれから18年も経った今になったのは、当時この問題に関わった人が政治家として現職に居ることから、この声を挙げるのを差し控えたのであるが、しかし私自身の年齢を考えると今この事を云い残しておかなければ問題が時の流れにかき消される事を恐れたのである。

(1)  野党議員による爆弾投下
平成10年10月はじめの参議院本会議での民主党議員の発言は民主主義政治を崩壊させるものであった。
民主党議員はこの時日本長期信用銀行の実名を挙げて「この銀行は525億円しか純資産が残って居ないから実質破たんに瀕している」とパネルを掲げて声高に言った。
これに対して宮沢大蔵大臣は「長銀は債務超過ではありません」と言明すると云う異常な国会であった。
憲法第51条に国会議員の発言については院外で責任を負わない、と規定されているが、それは無制限だろうか。
そのあと同じ国会で10月6日に自民党の塩崎議員が昭和40年代に電車の中での一女学生の会話がもとで一信用金庫が取り付けに追い込まれた例をあげて、したがって議員の発言は慎重を要すると野党議員をたしなめた。
国会で、ある銀行が危ないと云えば空恐ろしい起きる、このテレビを見た顧客の取り付けが直ちに長銀の各店に始まり、その日の午後だけで1支店で500億円の債券が解約され、 
数日後には全店で7000億円を越す債券預金の流失となった。
すなわち現実に野党議員の発言が加害行為となった。

このような異常な事態がこの国会で起きた、これがこの日に国会で民主政治の第一の破壊が行われたと云うことなのである。
(現実は長銀はこのひどい野党の攻撃に耐えて生き延びた、最終的に1569億9100万円の総資産が残ったのである。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この事件の半年前平成10年3月に金融システム安定化法によって小渕首相は13兆円の公的資金を投入して長銀を救済する方針を立て、9月に訪米した時にアメリカ大統領に話し、

同意を得て、帰国の航空機中で同行の記者団にもこの方針を表明した。

(2) 自民党議員による民主政治の破壊
民主党議員の爆弾発言のあと混迷した政局のなかで自民党領袖は首相の意思に反して首相の不在中に民主党と手を握り長銀を潰して野党の顔を立てて参議院のネジレ状態を解消する事を実行した。
首相は帰国後何も言わなくなった。
これが自民党と民主党との野合であり、民主主義政治の第2の自殺、自民党領袖による民主主義政治の破壊である。

この結果平成10年10月16日に金融再生法は与野党の合意ができて参議院で可決、成立を見たのであるが、この時首相の意向に反した自民党領袖の専行は何という事か、総理の権限は無視された、その後間もなく小渕氏は脳疾患を患い亡くなったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成10年10月にはこの様な政治の混迷、民主主義政治と考えられない事態が二つも起きた、この裏に衆議院では自民党多数、参議院では民主党多数とネジレていたことが一原因であった。
然しネジレ国会では必ずこの様なことが起きる、とは言えない。人格高昧な議員の集合であれば斯う云うことは起きないのである。

(3) 長銀株価の決定の経緯
以上のような政治の狭間で路線が敷かれた長銀の抹殺は平成10年10月16日以後に着々と進められた。
10月23日には特別公的管理銀行とされ10月28日には預金保険機構によって国が持つ1億株を含めて全株式24億1707万株は収用された。
この時預金保険機構の株主に対する通知文には、後に株価算定委員会が株式の価額を決定したときにはその対価を請求することが出来ると記載されて居た。

(4) 長銀株価の零決定の怪
平成11年3月30日に株価算定委員会(委員長落合誠一氏、委員 筒中義郎氏 石井清之氏 大橋正春氏 福間年勝氏)は長銀株価を算定して、普通株も優先株もすべて一株零円と金融再生委員会に報告した。これは長銀を清算するものとして全ての資産及び負債を評価する、と云う前提が付けられていた。
この前提は金融再生法の施行規則に定められたものとのちに判明したが、そしてそれは平成10年12月15日の官報に載せられた。
この平成10年12月15日と云う日は株価算定委員会に株価算定を諮問された日なのである。その日に「長銀を清算するものとして」という条件が付けられた、これは平成10年10月28日の全株収用の通知にも無い事であり、事後法である。運動競技においてスタートした後にゴールを無くしてしまうのと同じである。
さらにこの政府の行為は民法第424条に規定される詐害行為取り消し権に定められる詐害行為であり債権者が取り消し得る行為であり、この権利の消滅時効は20年と規定されている(民法第426条)。更に遡れば憲法第29条の財産権の保護にもとる行為である。

(5)  処が長銀は清算されなかった。否清算することが出来なかった、それは長銀資産の内保有有価証券は膨大なものでありこれを処分することは日本の証券業界を壊滅させる事になるからであった。
そう云うことで長銀はこの間1日も休む事も無く、特別公的管理銀行と云う形ではあるが、営業を継続し平成12年(2000年)3月にリップルウッド等からなる投資組合ニューLTCBパートナーズに売却されたのち12年6月に新生銀行と改称した。
この間1日の休みもなく営業を続けた。新生銀行が長銀を改称したとそのホームページに記載している。
この新生銀行へ経営が移行する時日本国政府はその所有する長銀株を10億円で投資組合に売却するほか国が所有する長銀株1000億円を新生銀行の優先株とした。その他国が引き継いだ長銀資産を新生銀行の日本政府所有の株式にする等の結果、新生銀行の22,7%(4億6912万株)を持つ筆頭株主となって居る。
この事実は長銀株式の価額がゼロでは無かった事を現している。

(7) 以上を総合すると長銀は今も新生銀行として生きているが、それは現実には新生銀行の
株式中の日本国政府の持ち株4億6912万株として存在している。

(8) 結語
上記(6)の事実が存在していることは上に縷々と述べた民主政治の崩壊という二つの事件に起因して起きた、長銀抹殺という無理な政治の強行にあった、それを要訳すれば
長銀株価零と算定を強制した政府の誤りと云わざるを得ないのである。
その誤りを現すものが前記⑥の4億6912万株の日本政府持ち株(その由来の説明は出来ないであろう)公表され、永久に残るのである。
株主平等の原則に反した、また無原則な政策が招来したものである。
この事を現在の自民党は覆い隠すことはできない、過去の自民党の為した行為でも問題を明るみに出して反省する事が必要なのである。その間にあった選挙で禊が済んだとは言えない、それは⑥の事実が物語るのである。

そして遅まきながらその是正を旧株主に対してされなければならない。
特に全株主の内ゼロ決定の後税制の配慮がされた法人株主はともかくとして、何の保護もうけなかった個人株主30,700人総計1億2590万株について価格がゼロで無かった長銀の株価を再算定して補償するべきなのである。
                  久保田 英三 2016年1月15日終わり

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2015年9月 2日 (水)

戦後を振り返って 第20話  シュミレーシヨン [本土決戦]

 70年前の太平洋戦争末期に 本土決戦、一億総特攻という言葉が飛び交いました。
それらは当時のせっぱ詰まった戦況から生まれた言葉でした。
緒戦の真珠湾攻撃、シンガポール攻略の輝かしい戦果から半年後には日本軍は敗退に転じます、ミッドウエイ海戦、フイリッピン沖海戦での海軍の壊滅、アツツ島,硫黄島の全滅、そして沖縄の壊滅、さらに戦艦大和の沈没等、これらの敗戦は日本軍の大きな悔恨でありました。

中でも沖縄戦では18万人の将兵と12万人の県民の死を賭した戦いに何の支援も出来なかった日本軍、この戦いは日本本土の決戦を少しでも遅らせる作戦と、軍民一体となって地下壕に潜み、火炎放射機、新型戦車に肉弾で対抗した3カ月の死闘でした。
この壊滅は内地にいる軍の指導者の頭に重くのしかかって居たと思われるのです。それまでの多くの戦いで散げした英霊にたいする慰霊の念も含めてアメリカに一撃報いたいと云う意思も籠った言葉が本土決戦であったと思われます。

 昭和20年7月28日にポツダム宣言が発表されました。そして原爆が8月6日に広島へ、8月9日に長崎に投下されました。政府内ではポツダム宣言を受諾して降伏するか否かで意見がまとまらず,阿南陸相は本土決戦を主張して対立が続き遂に8月10日に昭和天皇の聖断を仰いだのです、陛下ははっきりとポツダム宣言受諾を表明されました。
この時に阿南陸相に代表される徹底抗戦の意思を良く考えて見ると、当時の現状認識の粗誤が浮かび上がって来るのです。

本土決戦の考えには太平洋沿岸に上陸してくる米軍に沿岸に配置した部隊で肉弾攻撃を加える特攻作戦しか無かった、私達予科練生4000人が高知県の太平洋岸に陸戦隊として配置されたのもその一環で、他の地区の予科練生と併せると10万名になったのです。
また日本沿岸各地に板張り船体に250キロ爆弾を装着した震洋特攻隊が75か所1万名がありました。

即ちこの本土決戦作戦はアメリカ軍が戦車、火炎放射機を持って上陸してくると想定した在来型の作戦であったのです。
しかしアメリカ軍が沖縄で行ったような上陸作戦を再び日本国土に対して繰り返すでしようか。

それはその直前に原爆6発を完成したからにはそれを活用する筈と思うのです。
8月6日と9日の広島と長崎への2発の原爆投下がその実験であったのです。両市の上空数百メートルで炸裂した原爆は強烈な火力と破壊力で地上の全てを焼き尽くし、破壊しました、広島市で269,446人、長崎市で152,276人が殺傷されたのです。
若し日本がそれでも降伏しなければ、アメリカは既に完成していた残り4発の原爆を次々と投下するでしよう。それはパステル作戦、オリンピック作戦として計画していた日本への上陸作戦に原爆を加えた攻撃になる筈であったのです。
上陸作戦に先だって遠い太平洋上の基地から航空機で原爆を一発ずつ運び、投下して、日本陣地を壊滅してから上陸する筈であったと考えられます、日本軍が待ち構えている処には原爆の洗礼が行われるでしよう。
恐ろしいシュミレーシヨンになりました、われわれ予科練が数カ月苦労して築いた地下壕も一瞬にして押し潰される事になったでしよう。
アメリカの科学力は日本人が考える戦争の手段を飛び越した物になって居たのです、徹底抗戦を唱える軍人の頭では考えられない壊滅的な敗北しか生まれなかったでしよう。

昭和天皇はこの様な結果を体感されていたのではないでしようか、終戦の詔書に「敵は新たに残虐な爆弾を使用して」と云われこの原子爆弾の非を指摘されました。
昭和天皇の御聖断によって原爆投下は2発で終わりました。こう云うと広島、長崎の御霊421,722柱に申し訳ない事なのですが3発目、4発目とならないで本当に良かったのです。

当時本土決戦、一億総特攻など呪文のように軍の指導者は言いました、しかし国民の多くはそこまでは考えなかった筈です。
そこまで国民を巻き込むのであれば何の為の軍隊なのかと云う事になります。
国民の意識を無視した軍部の独断を排する気持ちですが、杞憂に終わりました。

だから戦争は駄目なのです、軍人も、政府の要人も、ジャーナリストも、多くの人の気持ちを錯乱させるのが戦争なのです。
                      

  (2015,9,1終わり久保田英三)

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2015年5月10日 (日)

戦後68年を振り返って 第19話

戦後68年を振り返って 第19話
       冷戦はいつまで続くのか

 太平洋戦争と云う熱戦が終了したあとまだ米ソの緊張が続き、これが冷戦と呼ばれ、これから朝鮮戦争、アフガニスターン戦争、ベトナム戦争などが火を噴いたがこれらが曲がりなりにも終了して、米ソ冷戦は終了したように思われました。
しかしその根は50年を経過しても枯れず,いつかは芽を出すことになります。2014年の3月のロシヤのウクライナにたいする介入はまさに冷戦が火を噴く寸前と思われます。
そして一方東方に目を向けると日露の北方領土の問題がぐずっている事も冷戦というべき事態なのです。そのはっきりした徴候を見て見ましよう
(1) 平成22年11月21日メドベージェフロシヤ国大統領は日本には無断で国後島を訪問した
(2) メドベージェフ大統領は平成22年12月24日に北方領土はすべてロシヤ領であると主張した
(3) 平成23年5月12日の新聞ではロシヤ国防相が北方領土に駐留する部隊の増強計画を近く国家指導部に提出すると云った。
国後、択捉の2島に新たに2か所の軍事拠点を構築し移動式ミサイルシステムと云う最新兵器を配備する、この北方領土の軍備強化は大統領より23年2月にジューコフ国防相に指示したとのことである。
(4)5月15日イワノフ副首相等が国後、択捉2島を訪問
(5)平成23年9月8日の読売新聞で北方領土に関連する新しい施策が決まったと報道  された、それはソ連崩壊後初めて開発建造した原子力潜水艦「ユーリー、ドルゴル―ー」(全長170m最大潜水深度450m射程8000kmの弾道ミサイルSLBM[ブラバ」を搭載する。
これを年内に太平洋艦隊(司令部ウラジオストック)に配備し、この1号艦の母港はカムチャッカのビリュチンスクになる予定とのこと。
するとアメリカ本土を射程に収める戦略原潜は既存の「デルタ3型」4隻とあわせて5隻となり、注目されるのは新原潜の配備でオホーツク海の戦略的重要性が高まり北方領土の重要性が増すと指摘する米国の研究機関があるとしている。
(ここで筆者が思い出すのは択捉島のひとかっぷ湾は以前北洋漁業の根拠地であり 連合艦隊の集結地であったこと、昭和16年11月26日に戦艦、空母等27隻 が、昭和17年5月末にはミッドウェイに向かう戦艦等83隻が集結した良湾である事である。ここをロシヤが使用することになれば、ロシヤの極東海軍の大きな威力になる事を恐れるのです。)
以上のロシヤ側の行動は明らかに日本とアメリカに対する戦闘準備としか考えられませんがこれらは日本の政治の弱体化に乗じて起こされたと見られます。

しかし強力な政府態勢が整った現在、上に見たようなロシヤの行動の根を断たなければなりませんがそれは北方領土の日本主権をロシヤに認めさせる事に尽きます。
 このことは既に何度も見たように1855年2月7日の日露通好条約の通り
 「第2条 今より後日本国とロシヤ国の境は「エトロフ」島と「ウルップ」島との間にあるべし、「エトロフ」全島は日本に属し「ウルップ」全島、それより北の方「クリル」
  諸島はロシヤに属す(以下略)」
と規定されており、この境界についてはその後何等変更されていない。
またサンフランシスコにおける1951年9月7日の講和会議における日本代表吉田首相の説明では[日本開国当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシヤも何等の異議を挿まなかったのであります」と述べている。
 この明らかな日本領土である択捉島にロシヤ軍は1945年8月28日、太平洋戦争が終わって2週間後に、国後島には更に3日後の9月1日に侵入して不法占拠した。
これは太平洋戦争とは別個の戦争と云う他は無い。
 スターリン史観ではロシヤの第2次世界大戦への参戦、日本との中立条約の有る中での参戦をヤルタ会談での英米首脳の合意があったと云うが、この会談はソ連の行為を認める権限の有る会議では無いし、日本は全く知らない会議、連合国だけの会談であり、これをもって中立条約をやぶる根拠にはならない。
またこの参戦を連合国人民を惨禍から救う聖戦と云うが、それを云うならば古今の戦争はすべて聖戦となる、北方領土侵攻の根拠にはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで冒頭に掲げた(1)から(5)の北方領土におけるロシヤの行為は我々が問題としている北方領土の主権の確認からは遥かに先に進んでしまっている。それは日米の安全にまで及んでいるのである。それならば日米安保条約に則って協議するべき段階にきていると思うのである。
 ところで日露を取り巻く世界の情勢を見て見よう、昨年3月よりロシヤの隣国ウクライナへの介入が世界の注視の的になっている。ここは北方領土問題解決の一つの機会と考えることができる。
 世界の東西で問題を抱えている、プーチン氏が取り得る手段は東にある、日本との交渉に於いてスターリン史観を脱却しゲンナジー、ブルブリス氏の意見・・北方領土の返還がロシヤの国益に資する・・を採用することが現在東方で膠着している問題解決と日露平和条約締結の早道である。
そうすれば日本は既に主権を放棄した樺太南部と近辺諸島、千島列島のウルップ島以北18島のロシヤの領有を認め世界地図にロシヤ領の色が付けられる事になります
 両肩に荷物を負ったプーチン氏に一肩おろして楽にしませんかと安倍首相から話してみるのはいかがでしようか。
        (第19話終わり    2015,5,6 久保田 英三)

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2015年3月12日 (木)

戦後68年を振り返って 第18話

戦後68年を振り返って 第18話
            
            多神教の国に生きて思う事
    

 日本の国教は神教であると云われている。それは天皇家の宗教が神教である事、皇室が古来、皇大神宮を崇め、大事な節目々々に神事をささげることがおおもととなって居る。
(ただし昭和20年の敗戦時にマッカーサー進駐軍からこの神道が侵略戦争の源と見られて神道は抑圧され官幣社の表札の抹消、国からの補助金の差し止めがされたが、これらはあまり効果はなかったと思われる)

 神社は日本全国各地にある、昔の官幣社は天照大神以来の多くの神々を祭神とし、以下歴代の天皇、皇后、菅原道真等の高位の人、楠正成等忠臣から近世の乃木将軍から、靖国神社には明治以来の外国との戦争で戦死した何十万人の将兵等誠に多くの祭神が祀られている、なかには神社の奥の大岩、山を祭神にした社もある。これを元来日本ではやおよろずの神と云って崇めている。それをアメリカ軍が否定しようとして、それは出来る事では無かった。

(靖国神社には岩里武則命が祀られている、この人は台湾出身その名を李登欽と云い、元台湾総統李登輝氏の兄である。昭和18年台湾は日本国台湾省であった、岩里氏は日本人として昭和18年10月に高雄の左営、台湾総督府海軍志願者訓練所に入所し翌年4月に左営海兵団に、そして7月に海軍機関兵として南方へ出撃し昭和20年2月15日ルソン島マニラで散華された。すなわち日本国民としてその国のために戦い戦死された、海軍上等兵であった。
 平成12年に退任された李登輝元総統が平成19年に東京を訪れた時、6月7日に念願の兄上との対面を62年ぶりに靖国神社で果たされた。
 この事実は靖国神社を考える上で大きな事柄と考えられる、当時日本国民として戦い
戦死した人は現在の台湾、朝鮮の人にかなり居られて合祀されていると思われる、。
 日本政府関係者が靖国神社を参拝するのをとやかく言う人々がこの話をきけばどう思うだろうか。)

 多神教に関して良く似た信仰の問題で仏教がある、1500年前に仏教がインド、中国から日本へ伝来して非常に多くの仏教徒が日本には居る。そしてその祭神も釈迦以下多くの仏様が居るのである。そして多くの仏様が云われることを日本古来の高僧と云われる人々が説明した物が各宗の教義になっているらしく,大分異なった説になっているようで、
この仏教も多分に多神教的な様相を呈している。

日本にはこの様に神道、仏教が広く行き渡りそしてこれらの宗教は他の宗教を排斥しないから、日本国は宗教の自由な国になって(鎖国時代は別として)、その後西洋から伝来のキリスト教、その他の宗教を信じる人もある程度は存在している。

 ところで日本人の宗教に対する態度と云うものを見ると、多くの人はアバウトな宗教観を持っているのではなかろうか、私個人を振り返って見ると非常に雑多な宗教観を持っている、いな宗教観を持っていないとまで言うような実態がある。
例をあげると、正月には近くの神社へ初詣に行く、結婚式は神前結婚をし、子供の七五三の時も神社でのりとを挙げて貰う、8月15日の慰霊祭は護国神社でやり。近親者の葬式は仏式で喝を唱えて貰う、12月25日にはクリスマスと云ってケーキを食べる。等など、それは習慣的にやっていることで、とても宗教的な信仰をしているとは言い難い。年中行事なのである。

これは宗教心の非常に少ない人間の例であって日本人の中にも宗教心の強い人もいるが、日本人平均的には私のようになるのではなかろうか。

 この様に考えてくると多くの神、仏が居てそれら神々が非常に温和に他を認め合っているから、すなわち厳しい宗教でないから日本国人は強い宗教をもたないで生活して行けるように思うのである。
東京に行って足が向けば靖国神社に御参りするかもしれない、そこに極東軍事裁判で有罪になった人が祀られていてもその他に何十万人の英霊が祀られて居る、中には李登欽氏のような人もいるのに差別する事は出来ない。

 さて言いたいことはこれからである、日本人全体が宗教心が希薄であるから,教義の厳しい宗教を信じる人のことを理解できないのではなかろうか、特に一神教の場合に極端な事が起こる事が理解できないのではなかろうか。ところが一神教は戦闘的、攻撃的になる素地を持っているのである。

 世界の歴史を見るとキリスト教も中世に十字軍を起こし欧州全域わ荒らし回った、イスラム教もフランス、スペインまで征服した歴史があった。

 そして現在中東地区で何かと問題が起きている、イスラム教徒の教義の争いから生まれる混乱である。イスラム教ではその中の派閥ともいえるシーア派とスンニ派との争いがあるとの事。
そう云う争いを何とか止めさせようとする善意の部外者を捕えて処刑したのがイスラム国と名乗る者たちの蛮行であった。

 一神教、代表的なのはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教等は教義をつきつめて行けば
他の宗教を信じるものを許さないという厳しさを持っている、この事をを日本人は肝をすえて考えておかなければならないのではなかろうか。

 参考文献 英霊にこたえる会編 靖国カレンダー
      文芸春秋 2015年3月号、一神教と多神教  塩野七生

   (戦後68年を振り返って 第18話 終わり  2015年3月10日 
                            久保田英三)

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2015年2月11日 (水)

戦後68年を振り返って 第17話

戦後68年を振り返って 第17話

北方領土問題の核心

 平成27年1月20日に岸田外相がベルギーで行った演説でウクライナで起こって居ることも北方領土の問題も「ロシヤとソ連の力による現状変更だ」と述べた事をロシヤ外務省が批判した事について、1月22日に菅官房長官が更に「北方領土問題が日本がポツダム宣言を受諾を表明した後にソ連に占領されたのは歴史上の事実だ、岸田外相はこうした歴史的な事実をふまえた認識を述べたもので[歴史の歪曲]と云う判断を受け入れることはできない」と反論した。

 この日本の政権の主要閣僚2名の発言は短いながらも北方領土についての日本の立場を明快に示した発言であって、全く正しい。 これが北方領土問題の核心なのである。  ソ連、ロシヤと日本の領土交渉が始まって60年間この日本の主張の核心がロシヤ側に理解されていない、それはロシヤ側の上記の外務省の発言に現れているが、その根源にスターリン史観なる誤った思想があるように思われるのである。

 上記の日本政府の2閣僚の核心をついた発言だけでは全体を掴むのが困難なので、以下にその基になる事実関係を改めて検証してみよう。

1、 日露領土交渉の行き詰まり 北方領土交渉が行き詰まっているのは、日本側の主張が国後、択捉島の主権が日本に在り、これが1945年いらいソ連、ロシヤに侵害されている、その日本主権の確認を求め返還を求める、と云うに対し、 ロシヤ側は太平洋戦争を、多くの世界人民を戦禍から守る米英の聖戦であるとして、それへのソ連の参加の結果北方四島へ侵攻し、以後それらを占拠して今日にいたっていると主張して譲らない。

 実状を見て見よう、 北方領土へのソ連軍の侵攻は1945年8月29日に択捉島に9月1日に国後、色丹島に上陸して、武装解除した。 この侵入は菅官房長官の言のとおり、8月15日の日本のポツダム宣言受諾、したがって日本の降伏の14日以後のこと、すなわち全く戦後のことなのである。  この日本の降伏は8月15日に中立国の外電で米英支蘇の4国に通知されたからロシヤ政府も即日承知していたはずであった。 (スターリンソ連首相が日本降伏を即日に知って居たことは、次の事実で証明できる。 それはその翌日の8月16日にアメリカのトルーマン大統領宛てに戦後の日本占領地として北海道の北半分を要求した、しかし8月17日ずけのトルーマン大統領の返書は北海道の半分の占領は拒否する、そしてアメリカは中千島の一島に米軍の飛行場を設ける権利を要求した。 スターリンは8月22日に、不満であるが北海道の北半分の占領は断念するが、中千島の飛行場の設営は断ると返事したという事実がある。 この事からスターリン首相は日本の降伏を即日知って居たと云えるのである。  

以下は想像であるがスターリン首相は北海道占領の挫折をうずめる次の手として北方領土への侵攻を指令したのではないか、それが8月29日と9月1日の北方領土侵入となったと思われる。  戦後2週間を経た時点と云えば、筆者が予科練、陸戦隊として四国太平洋岸に配置された当時を思い出しても、8月15日敗戦の日の屈辱感、挫折感、価値観の喪失から立ち直って復員、帰郷の思いのみの時期であった。  

この時に北方領土へのソ連軍の侵入、そして武器の押収であった。 この時の現地の兵士たちの心情をおもえば涙するしかない。 これはスターリン史観に云う聖戦の継続、その結果の占領とは全く言いうる事ではなく、 太平洋戦争が終了して2週間後の別個の領土侵略の戦争を始めたと断じざるを得ない。

 更に非行は続く、北方領土、満州、樺太、朝鮮の日本兵士を拘束して64万人(満蒙開拓団の人々は別に27万人)がシベリヤ、沿海州、ウラル山脈の西までに送られ,苛酷な労働に服することになった。 この事はポツダム宣言の第9項に明示された、捕虜の待遇に違反するのみでなく、人道上大きな問題であり、今後詰めるべき日ろ平和条約交渉において対処すべき問題である。 また日本軍が居なくなった兵舎は無断でソ連兵が住み着き、70年間使用し続けている、これも黙って居るべき事ではない。

 さらに看過できない非行は北方4島在住の島民17,291名はそのままに居ればロシヤ国民にされるので強制的に北海道に移住させられ対岸の根室等に居住を余儀なくされた。以後70年今は孫の代になっているがこの人々の望郷の念は消えない。

 この人道上の罪も糾弾されるべきなのである。

2、 スターリン史観の検証  ロシヤ側は未だにソ連の北方4島への進攻はヤルタ協約で認められた聖戦の遂行と云う、 これは今まで見て来たように歴史を歪曲したスターリンの説なのである。  まずヤルタ会談なるものが1945年2月4日から11日に米英首脳とスターリンが会談して戦後の戦後の国際秩序について話し合われたことは知られていたがその他は何等知られて居なかった。

この事は1991年9月の日露平和条約交渉に於いて外相級の会談で次のように日本の見解を明らかに示している。

 「ヤルタ協定は戦後の国境を決めた国際法上の協定ではないし、当時日本はその存在すら知らなかった、知らなかったものに日本が拘束されることはあり得ない。 そもそも此処に云うソ連への千島列島の引き渡しは戦後の領土不拡大をうたった太平洋宣言とカイロ宣言に明白に違反している。

 ここで言う対日戦争への参加という事自体が当時有効に機能していた日ソ中立条約違反ではないか。  ヤルタ協約が何等何等根拠となり得ない以上、日本としては戦後の国際条約の中で領土問題に法的に根拠となるものは1951年のサンフランシスコ平和条約となる、 ここでは確かに日本は千島列島の放棄を規定しているが、この平和条約は放棄した千島の帰属先を決めていないし、千島の範囲も定義していない。

 この講和条約で吉田全権は「千島南部の国後、択捉の両島が日本領であることは、 帝政ロシヤも何等異議を挿まなかったのであります」と明言している。

 即ちサンフランシスコ平和条約では日本は国後、択捉の両島を放棄していないと 明言した」 (なお「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料」の(6)ニコライ一世のプチャーチン提督宛の訓令(1831)と(7)日露通好条約第2条(1855)に択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシヤ領と明記している。 

 このようにスターリン史観は徹底的に論破できるのである。

3、 スターリン史観の現在 この日ソ中立条約破りである北方領土の侵攻についてのスターリン史観なるものは 1946年5月の極東軍事裁判に際し、ソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露して世に知られるようになり、この歴史の改ざんをスターリンは国内のあらゆる文書その他の媒体を通じて国民に植え付けたとの事であった。

 独裁者の非行を可とする為に歴史を改ざんしこれを国民に信じさせる方策を国を挙げて行うとは恐ろしい国があったものである。

 スターリンはその後フルシチョフ大統領時に否定された、しかしそれ国内政治における悪行が否定されたのであって、日本との外交であるこの北方領土問題についての悪行は残って居たと思われる。

4、 ゲンナジー、ブルブリス氏の至言 この人はスターリン史観に汚染していない人物であった。この人がエリツイン大統領の国務長官であったときスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本への返還をするならば北方領土の問題の解決とロシヤの国益に矛盾は生じない、 即ちロシヤは樺太南部と千島の中部、北部のロシヤへの帰属の日本の承認を得られると云う利益を得るという説を述べたとの事である。  またスターリンの暴挙と云う点で、北方領土の問題と日本兵のソベリヤ抑留は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言して1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとのことである。

 この謝罪は今後の平和条約交渉において正式に文書で表わされるべきと考える。

5、 日ソ中立条約破りの犯罪性について この問題は平和条約の交渉とは別枠で討議するべき事と考える。 スターリン首相は日ソ中立条約の期限の8カ月前にこれを破って日本へ宣戦を布告して参戦した。この国際条約を破る犯罪性について検証してみよう。  

当時の事を振り返ると1945年5月8日にドイツ降伏の報を受けて日本政府は米英及び中国にたいして講和を申し出る事を決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいる友好国ソ連しかないと政府首脳は決議した。  

この和平交渉の仲介の依頼を伝える使者として起用した元首相広田弘毅氏のソ連マリク大使との折衝ははぐらかされて、何の回答も得られない。そこで政府は昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた、ところが佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。

この2カ月と10日の空費は大きかった。  ソ連側がなぜ態度を明らかにせず日を遷延させたか、あとで思えば中立条約破りの画策がそれにブレーキを掛けたとしか考えられない。  そして7月26日にポツダム宣言が発せられた。日本は7月18日から8日間では 次の仲介国を依頼する事ができなかった。

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 一方アメリカでは原子爆弾の開発が最終段階に来ていた。1945年7月16日にポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられた、大統領はこの原爆を8月3日以後なるべく早く天候を見て既に選定してある日本都市に投下するよう訓令を発した。  現実に8月6日に広島に8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、この2都市の住民、 老いも若きも、朝礼中の小学生までも422,200人が即死または原爆症で苦しみそして命を断ったのである。

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 こう見て来ると、もし7月26日のポツダム宣言の発表までに日本が和平交渉を申し出て居れば原爆の投下は見送られて居たであろう。ところがソ連の中立条約破りの 姦計の結果、日本の外交が時期を逸して原爆の投下となってしまった。  即ち原爆がもたらす惨禍についての責任の一半はソ連が負うべきと云う事になるのである。

6、問題解決の順序  以上いくつかの日ロ間にわだかまる問題をどの順に解決していくかを考えてみよう。

(1)上記5に述べた国際条約破りについては、それが行われた直後に東郷外相が「やがて世界の裁判がなされるべき事」と言明された、それが70年間行われていない、 それはその後に始まった日ロの領土交渉、平和条約交渉で、いずれロシヤ側が其の非に気ずくと期待したからであろう。ところがそれに気ずいたのはブルブリス氏のみで、いまだに交渉担当外務官僚が主張を変えないとすれば,取るべき手段は何か。世界各国の理解を得る事、具体的には国連への提訴である。
それには日本と殆んど同じ問題で先例の有る事を思い出して貰いたい。それは蔣政権とソビエトの中ソ友好同盟条約の締結とそれの破棄の経過である。 (中ソ友好同盟条約・・・この前段に米ソのヤルタ密約があるが、そこで蔣政権には断りなしに中国主権が侵されていることが盛られていた。
旅順港、大連のロシヤの優先使用、中東鉄路と南満鉄路の共同使用、外蒙古の独立等、蔣政権ではこれらを不満として宋子文外交部長と蔣経国をスターリンの許へ派遣して協議させた。この結果1945年8月14日にこの条約は調印された。

 ところがこの条約締結の直後スターリンは背信行為に出た、8月9日よりのソ連の日本側満州への攻撃が僅か2週間で東北3省の殆んど全域をソ連は手中に収め、かつこの3省をそっくり共産軍に渡した。  蒋介石総統はこの背信に激怒し国連に提訴した。
その結果1952年2月1日の第6回総会の決議でつぎのように罪行が確定した。 「ソ連は日本投降後中国国民政府が東北3省に於いて、主権を回復しようとする努力に対し終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事、経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。 本総会はソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約を未だに履行していないと断定する」  これを受けて中華民国は1952年2月15日に同条約の無効を正式に宣告した。)  この中ソ友好同盟条約のソ連による蹂躙と日ソ中立条約破りとは非常に類似しているのである。
したがって、今後 日本の取るべき道は、まず国連へ前記5に述べた国際条約破りの犯罪について提訴し裁定を求め、国際社会の合意をもとめる事と思うのである。

(2)その次ぎの段階として日露の領土交渉を改めて出直すことである。 ロシヤ側は過去に歯舞、色丹島の返還で領土交渉は終わったと云ったが、上記のように中立条約破りの不法が証明されれば国後、択捉島への侵攻は正当性を失うのであるから、国後、択捉島の日本主権の確認、と返還、さらに1、に示したかずかずの付帯した非行について決着をつけるべきである。
 また4、に示したソ連の謝罪が正式に文書化されるべきである。  これらが全て完了した後樺太南部と千島列島の中部、北部のロシヤへの帰属を日本が承認するという順序になるものと思う。

(戦後68年を振り返って 第17話 終わり 平成27年2月7日北方領土の日にちなんで)      参考文献        蒋介石秘録(上)   サンケイ新聞社                  

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2014年7月 9日 (水)

戦後68年を振り返って 第16話

戦後68年を振り返って 第16話

第2次世界戦争の末期に繰り出したスターリンの非行を検証する

 それは国際条約破りという形で2件現れたのである。
一つは日ソ中立条約破りで日本人なら誰でもが知って居る、今一つは中華民国とソ連が締結した中ソ友好条約であった。

1、 中ソ友好条約の顛末
この条約はヤルタ密約によるソ連の対日参戦の報酬として、特に中華民国の国権を人身御供に提供するような内容に蒋介石が不満を持ち、義兄宋子文と息子蔣経国をソ連に派遣し、スターリンと会談を持たせた際に生まれた条約であって1945年8月14日に締結したものである。 
 すでにその一週間前の8月8日に対日参戦したソ連軍は中国の 東北(満州)に大量の軍隊を投入し、中国領に深く進入していた、この軍隊をいつまでもそこにとどめる事は東北地方を共産軍の手に引渡すのに等しい。
中ソ友好条約はそれを防ぐ防波堤となるべきものであった。
 条文は連合国軍の対日作戦への協力、相互支援、平和維持への努力、両国の主権と領土の尊重をうたうことは当然であったが付帯条件としてソ連軍は日本敗退後3週間で撤退を開始し3カ月で完了すると記載された。
 ところがスターリンは条約成立と同時にこれを踏みにじるという背信行為に出た、満州に侵攻して2週間で東北三省全域を手に入れたソ連軍は3カ月で撤退するどころか東北三省をそっくり中国共産党に渡してしまった。
 激怒した蔣政権は国連に提訴して取り上げられ(常任理事国同志の争いなので拒否権の行使は無かったのであろう)1952年2月1日の第6回総会決議でつぎの判決が出された。
 「ソ連は日本投降後、中国国民政府が東北三省において主権を回復しようとする努力にたいし、終始妨害を加え、かつ中国共産党に軍事・経済上の援助を与えて国民政府に対する反抗を助けた。
 本総会は、ソ連が1945年8月14日に締結した中ソ友好同盟条約をいまだに履行していないと断定する。」
 これを受けて中華民国は1945年2月15日、同条約の無効を正式に宣告した。

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 何という背信であろうか、ソ連と友好条約を結んだ結果偉大な穀倉、東北三省を中共に攫われ、長征で体力を消耗し、大躍進のみじめな失敗をした中共を蘇生させ、かつ中華民国は台湾にこもらなければならなかった、そのもとは人間技と思えないスターリンの非行であった。

 ローマ時代の大政治家、大カトーがいつも演説に付け加えた「ところでカルタゴは滅亡されなければならない」の言をまねれば
「ところでスターリンは否定されなければならない」と云おう。

2、 日本へのスターリンの背信行為
 戦後に明らかになった事実を総合すると、1945年2月4日~11日のヤルタ会談で秘密裏に対日参戦を言明したスターリンは着々と其の準備を進める、欧州戦線に張り付けた160万人の軍をソ満国境に送り返す作業である。これはドイツが全面降伏した1945年5月8日から開始された。これは隠密裏にすすみスターリンの構想どうり3カ月後、8月初めにソ満国境に配置された。
 日本の最強部隊である関東軍が展開するソ満国境に展開し日本への参戦の体制は整っていた。ただしこのソ連軍の行動は秘密裡であり、日本は全く気付かなかった。
 即ち日本への参戦、日ソ中立条約破りはこの5月から8月8日までに準備完了していたのである。
 このソ連の内情を全く知らない日本政府は同じく5月8日にドイツ降伏の報をうけて鈴木貫太郎首相は米英及び中国に対して講和を申し出ることを決意する、講和の仲介をどこに頼むか、中立条約を結んでいるソ連に頼むしかないと政府首脳は決議した。これは当時誰が考えても至当な決定であった、アメリカに直接和を請うことは非常に条件を下げることになるので考えられなかった。
 ここから悲劇が始まることになる、国と国の考えのチグハグ全く正反対ははとんでもない方向へ進んでいくことになるのである。
 まず和平交渉の仲介を伝えるために元首相広田弘毅氏が行ったソ連マリク大使との折衝はすべてがはぐらかされてしまった。
 政府はそこで昭和天皇の特使として近衛公爵を起用しこの事の予備的な交渉を佐藤駐ソ大使に命じた。ところがこの佐藤大使のモロトフ外相と打ち合わせたいとの申し出も遷延されて7月18日になって拒否された。
 この2カ月と10日の空費は日本にとっては大きかった。アメリカでは原爆の製造が最終段階に来ていた、1945年7月16日ポツダム会談に来ていたトルーマン米大統領に原爆完成が伝えられ、大統領はこの爆弾を8月3日以後なるべく早く天候を見て、すでに選定していた日本各都市へ投下するよう訓令を発したと云う事である。
 そうすると8月3日以前に和平交渉が開始できていれば爆弾が完成していても投下されることは無かったのである。
 8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾の投下はこの2都市の民間人、老いも若きも朝礼中の小学生までも422,200人が被爆し即死または原爆症で苦しみその後に命を断つと云う惨禍、これを春秋の筆法でいうなら中立条約破りを秘密裡に着々準備しながら日本を裏切った行為のよって引き起こされたと云えるのである。

 「したがってスターリンの日ソ中立破りは人類に対する大犯罪を引き起こしたと断じなければならない」

3、 中立条約下でのソ連参戦
 1945年8月8日佐藤大使はクレムリンに呼ばれ、モロトフ外相から「ソ連政府は8月9日を期して日本と 戦争状態に入る事を宣言する」との通告書を渡された
 また東京ではマリク大使が8月10日に東郷外相を訪ねて右の宣言書を伝達した。
これほど酷い国際間のやりとりが過去にあっただろうか。
 この宣戦布告に対して日本政府はこの事実行為にどうする事も出来ず、ただ東郷外相は次の文書をソ連政府へ送った
「日本側においてはソ連邦とのあいだに長き期間にわたり友好なる関係を設定する目的を以って来たり居り、最近においても5月始めより広田元首相をして貴大使との間に話し合いを進めしたるが右に対しソ側より回答に接し居らず。尚7月中旬、人類を戦争の惨禍より救うためなるべく速やかに戦争を終結せしめんとの陛下の大御心により右をソ連側に伝達し日ソ間の関係強化、戦争終結に関する話し合いを為すための特使の派遣 を申し入れたるがこれにたいしても未だ回答無かりし次第なり。即ち我が方においては戦争終結に関するソ連政府の回答を待ち米英重慶三国の共同宣言に対する態度の決定に資したしと考え居りたる次第なり。
貴方にいては三国の共同宣言は拒否されたとされ居るところ、右が如何なるソースによりて知り得たるものなりや承知せざるが前述の事実に鑑み日本へ何等の返事をすることなく,突如として国交を断たれ戦争に入るるは不可解の事なり。
 東洋における将来の事態よりも甚だ遺憾なりと云わざるを得ず
 みぎはやがて世界の歴史が裁判すべく、今は本問題に付き話す事は差し控えたし」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦後70年間世界の歴史はこの事を裁判しなかった、私は本論を以っておこがましくもこれを論じようとして居る。
 多くの有志がこの問題を論じて貰いたいのである。――先へ進もう。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1945年8月9日未明にソ連軍は157万人の陣容で満州、樺太方面へ侵攻した、これに対する関東軍は75万人と云うもののすでに精鋭部隊は南方へ派遣された残りで装備も不十分であった。
 殆んど抵抗も出来ず広範囲な満州国境地区、北部、東部、西部、の各方軍は津波のように押し寄せるソ連軍に対して約1週間苦戦をしたが、8月16日関東軍総司令部から停戦の指示がされた、また樺太南部へは8月11日から侵入8月23日に停戦協定が成立した。
 ところが北千島、南千島への侵攻は様子が違った、占守島には8月18日、中千島の松輪島には8月26日に、ウルっプ島には8月31日に、そして以後今日まで問題となって居る択捉島には8月29日、国後、色丹島には9月1日に上陸して日本軍の武装解除をした。
 この北方領土への侵攻の日が問題なのである、日本のポツダム宣言受諾の8月15日から2週間以上を経ているのである。
 スターリンは8月15日の降伏を即日知って居た、だから8月16日に米トルーマン大統領に戦後の日本占領のソ連担当地区として北海道の北半分を要求して,翌17日にトルーマン氏から拒絶の文書が出されたと云う史実がある。
 したがって8月15日の日本降伏を知りながら北方4島の攻撃を差し止めなかった、不作為は戦後の歴史での大きな問題点である。それは次のような非人道的な行為として現れた。
 その後直ちに北方4島の住民17,291名は財産すべてを残して北海道へ移住させられた、それはこの命令に従わずに残れば、ロシヤ国民とされてしまうからであった。この人々は今や70年を経て孫の代になっているが望郷の念は消えていない。
 次に満州、樺太、千島、朝鮮で囚われた日本軍あわせて,陸軍581,600名、海軍4,000名、その他に満蒙開拓団の人々270,000名が1000名単位の作業大隊に編成されてシベリヤ、中央アジヤ、モンゴルに送られ、その後10年以上にわたる惨憺たる労働に服させられた。
 この事はスターリンの非行の4つ目に数えられる。

「したがって北方4島への侵攻は中立破りのスターリンの次の領土侵略であった」

4、 スターリン犯罪の連鎖
 日本を侵略国家と見、ソ連の中立条約破りは正義の為の戦いだとする歴史観を創作したのはスターリンであった、しかしこの史観なるものには容易に論破できる。
 ヤルタ協定なるものが第二次世界大戦の末期の連合国の戦後報酬についての密約であり、何等国際条約的な重みをもつものではなく、これを以って米英首脳の承認を得た対日作戦と云うがこれら首脳が黙認したソ連独自の行動であり、世界の国々を戦禍から守る聖戦であるとしたのは後から創作した理屈である。
 それが証拠にはこの事は米英ソ支の4国以外に誰も知らなかった、これが世界に知られることになったのは、1946年5月の極東国際軍事裁判でソ連が日本との中立条約を破った事の正当性と称するものを国際を社会にアッピールする舞台としてソ連自らが暴露したからであった。
 これは歴史の改ざんである、ところがスターリンはこれを国内のあらゆる文書、その他の媒体をつうじて国民に植え付けた
 恐ろしい国があったものである、独裁者の非行を隠すために歴史を改ざんし、これを国民に信じさせる。しかもそれはその後何十年も国をあげて実行されたとは。
 したがってその後歴代の大統領もこの史観に汚染されている、或いは国民の支持を得るためにはこの史観に反する立場をとることが出来ないと見られる言行が多いのである。
 このようなロシヤの国内情勢から北方領土問題は歯舞、色丹島の返還から先に進めなくなってしまった。

「したがって誤ったスターリン主義は断ち切られなければならない」

5、 ロシヤ国の先覚者の至言
 ゲンナジー、ブルブリス氏は1993年頃エリツイン大統領時に改革派の国家院議員であり、国務長官であった、この人が公の場で、ロシヤ正義のために北方四島は日本に返還すべしと発言した。
 それはスターリンの過ちである北方領土の奪取について謝罪し日本へ返還すると云うならば、北方領土問題の解決とロシヤの国益との間に矛盾は生じないと云う説を述べたとの事である。
 またスターリンの暴挙と云う点で北方領土の問題と日本兵のシベリヤ抑留問題は同根であるとブルブリス氏はエリツイン大統領に進言し1993年の公式訪問で天皇陛下と総理大臣に頭を下げて謝罪したとの事であった。(鈴木宗男、佐藤優著 北方
領土特命交渉より)

 ところでロシヤ国の国益と云う事を考えて見よう。遠い将来の世界の評価と云う事でなくても,直近の問題として南樺太(サファリン)とウルップ島以北の千島列島の帰属の問題がある。これらはサンフランシスコ平和条約で日本は放棄した、しかしそれらがどこの国に帰属するかはまだ決められていない。それは来るべき日ロの平和条約で日本がロシヤへの帰属を宣言すればロシヤの物になるのであって、現在これらを実効的に使用し名称をサファリン州などとしていても国際法上主権はロシヤには無い。

 まずこう云う実益がそこに転がっているである、ただしこれはロシヤ政府がスターリン主義を脱却してスターリンの非を認め、北方四島を日本に返還する事によって
平和条約の締結に進めることが出来るのであって、ブルブリス氏が国益に資すると云うのはこの事を指していると思われる

 ロシヤ政府に望むのはフルシチョフ政権時に行われたスターリン批判は国内政治の誤りの修正であったが、その時に取り残された外国との関係での誤り、上記の中華民国との友好条約の破棄と日本の中立条約破りの反省を実行しなければ、ロシヤは今後国際社会から認められる存在とはならないと云う事である。

 「したがってスターリンは再度抹殺されなければならない」

 (戦後68年を振り返って 第16話終わり 久保田英三 26,7,7)
参考文献
 蒋介石秘録  サンケイ新聞社刊
 北方領土特命交渉 鈴木宗男、佐藤優著 講談社刊
 ロシヤから見た北方領土 岡田和裕著 潮書房光人社刊
 トルーマン回顧録 堀江芳孝訳 恒文社刊
 戦後67年を経て 次代に託す諸問題 第3話~第6話 久保田英三ブログ

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